『桶かつぎ』

By ひたきさん   

<<前編>>


 それほど古くない頃のことであったろうかと、書かれたのも夢ほどに遠い昔のことである。
河内国、交野の辺に、ガウリイという子があった。金の髪、空の瞳を持ち、幼くして帝の覚え めでたく、ガブリエフさんちの長男といえばご近所でも評判の将来有望株である。何よりその 容姿は天人の示現と思われるように光り輝き、かの在原業平の幼き頃もこれほどであった ろうかと思われる。要領の良さ、狡賢さに関しては少々頼りないところはあったが、それは またひとつの美徳と思われ、お手手にぎにぎしたい子ナンバーワンとして、 老若男女の身分を問わず、皆から可愛がられていた。
 しかし、そんな幸せな優良物件がそうそう転がっているはずもないのがはかない世の中 である。ガウリイが十三という年に、母上が突然不治の病に臥せってしまった。加持祈祷を したが一向に癒える気配もなく、施したあらゆる手も尽きてどうしようもない。死期を悟った 母上は、ある日息子をそばに呼んで、何やら箱の入った大きな鉢をお渡しになった。
「ガウリイ、これを被りなさい。」
「母上、それはちょっと恥ずかしいです。」
「母の言うことがきけないのですかっごふっ!!」
「ああっ、母上!?」
 ガウリイは孝行を常とし、母上の願いは血を吐くような思いであるので、肩の隠れるほどの 鉢を被った。
「あっ夜だ。」
母上はそれを聞いて息子の将来に暗雲をお感じになられたが、自分にしてやれることに これ以上のことはない。まだまだ可愛がり育ててあげたい思いはどの母親にも劣らぬもの であるが、この体ではどうしようもない。
 ああ、せめて主人が哀愁の単身赴任でなかったら。
 息子の将来を考えるにつけ、頭痛息切れにこの身が削がれるようである。
「……くっ!」
 母上は胸を押さえて寝具にお倒れになった。
「母上!」
 いまだ幼き美少年の涙も零れんばかりに母を呼ぶ声は誰の心を動かさぬことがあろうかと いうことには、おねーさんが手取り足取り苛めてあげたくなるものである。けれどやはり 母上、その手をとるのはやはり我が子のためである。

さしも草深くぞ頼む観世音誓ひのままにいただかせぬる

「ふ、ふふ、ふふふ……。お頼みしましたわ観音様、この前夢でこうしろと仰いましたよねえ 並どころでなくかわいい我が子をこんな哀れな姿になさったのもきっとお考えあっての事に 違いありますまい、ええ信じてますとも観音様。」
 ガウリイの手をとったまま、母上はうわ言のようにぶつぶつと呟かれる。
「母上…………こわい。」
 親の心を子が知らぬのはいつの世も変わらぬものである。
 そうこうしているうちにほどなくして、ガウリイの母上はついにお亡くなりになってしまった。

 葬儀は数日後、雨さえもしめやかに地を濡らす中、静かに行われた。単身赴任の父上も とんで帰って涙に暮れ、驚き嘆くその様子は尋常ではない。
「おおガウリイ、息子よ、わたしと同じく悲しみに打ちひしがれているであろう……って、お前 どうしたんだその鉢は?」
「母上のかたみです。」
「いや被るのはどうかと思うぞ。」
 こう言って父上はガウリイの鉢を取ろうとなさったが、どのような力の成せる技か、鉢は しがみ付くように外れない。ジャストフィットの鉢を痛ててと撫でるガウリイは、どこから見ても 鉢人間である。
「ああ、なんということだ、顔が売りものの息子が片端になるとは、わたしの老後が。」
 ガウリイの正直は父親譲りのようである。たいそう驚き、お嘆きなさることは限りない。
 こうして、父上は妻と明るい将来ビジョンを失ったWショックで女遊びをお始めになり、春に なって軒端の枝に咲く桜の花も無情な風に散ってはいくが、やがてまた春がめぐり来れば 花を開くように、一年後には新しい奥方様を連れてお帰りになった。
 新しい奥方は、連れ子を箱に入れんばかりに可愛がられ、ガウリイ鉢人間を醜いと公言 して憚らず、何くれ構うことなくせっせと彼を苛めぬかれた。
「宅のジェフェリーちゃんのためざます。ごめんあそばせ。」
 健気な想いで呪いにも手を出され、その禍禍しさは道を修めた験者をも呪うかと思われるもの であったが、さすが観音様の鉢、どんなに誠心誠意呪っても軽々と返されてしまうことには、 かの竜破斬の詠唱中になまくら刀で斬り付けることもそのようであろうと思われる。
 しかし新妻、されど新妻。
「押してだめなら引いてみろ、ざます。」
 ねばーぎぶあっぷ。
 そう仰り、ある日の夜、墨のかかった空の下、月の光の欠片も見えぬ闇に身を沈め、 獣よりも音立てずにガウリイの枕元にお立ちになり、
「どっせい!」
 べきっ!
 ずぽっ!
 えいやとばかり、文字通り鉢をお『引き』になった。
 恐ろしきは女の執念、不可能を知らぬ奥方の力は、観音様のご加護真っ只中の鉢を 引っぺがし、代わりに使い古された桶をくっつけたのである。
「これで誰もこの子がガウリイだとは気がつかないざます!」
 世間見ずもここまでくれば正しいような心持すらわくものである。あまりの衝撃に気絶している ガウリイを残し、奥方は闇夜につんざくような高笑いをなさった。
 そして一夜明けた次の日のことである。
「――父上?」
「何度も言わせるな。わたしの息子は外れぬ鉢かつぎだ。小汚い桶などではない。
わたしは、おまえなど知らん。」
 実は意外と似たもの夫婦でおられた。大多数の見えざる突っ込みの手をものともせず、 ガウリイを広い野原に帷子一枚であっけなく放り出してしまったのはあわれである。
転がるような不幸は身もフタもない。無数に音をかき立てる雑草に足を埋めるように、 ただ一人ガウリイは野の四辻に立ち尽くしたのである。
 広い野原。足を刺す雑草。草履とほとんど下着一丁状態、薄汚れても長い髪の風に乱れる その姿に隠しきれぬ高貴さがうかがえるとはいえ、誰が河内国の長男、その評判故に帝に お目通りまでした事のある出世株の若君だと気づくであろうか。ましてや桶など被って いれば、あまりの落差に世をはかなむ事必至である。
「腹へった……。」
 只人ならば涙に暮れて袖を濡らし、浮世を嘆き前世の業を嘆くものであるが、元々 ガウリイは物事を気にする性分ではなかったので、足に任せて歩いていく。
ややしばらくたって、このように、

野の末の道踏み分けていづくともさして行きなん身とは思はず

とひまつぶしに詠じるが、どこへ行くあてもない身なのか、あてを忘れてしまったのかは、 本人がともかく忘れてしまったので突っ込みようがない。何も考えていないが美少年なので 思案顔で歩いていったところが、大きな川の岸辺についた。前に進めなくなったことに 気がつき、ふと首を巡らせたところで、ガウリイは背筋を凍らせる。
「う゛っ……っっ!!」
 辺り一面、見事なぴいまん畑であった。いやしい身分の者が植えたのであろうか、 まさにここはかぐわしきぴいまん臭の生き地獄である。どこに目を逸らしても健康的な緑、 既に関節はぎちぎちしている。
「川……川を渡らないと……。」
 どこをさして行くともなくぴいまん畑を迷い歩くよりはこの川に入ろうと、河岸に行って 覗き込む。体が思うように動かずにどうしたものかと思案するが、岸に立っているのも恐ろしく、 いよいよ思いきる。
「いやもういっそ川の水屑になった方が。」

河岸の柳の糸の一筋に思ひきる身を神も助けよ

 平時ならば問題などないが、今は死に物狂いである。どぼんと音を立てて川に体を投げ沈めたところ、 逆さの桶は沈むことなく、頭だけを差し出した間の抜けた様子の、傍目には逆さの桶が、 桃のように流れていったのだった。
 そのうちに、魚をとる舟が通りかかったのか、体格の良い男が、「ややっこれは何だ!」と 桶を見つけた。引き上げてみると、顔は桶で、下は人である。男は、はて化け物かと思ったが、 たとえ化け物にしても、手足の指先の美しいことよとつくづく見ていれば、見れば見るほど なるほど欠点もなく美しい。
「おぬし、さては川の精か。これは俺がいつも清く正しく美しくそして強く生きているので、 川の神がこの娘を俺に授けたに違いない。さあ娘よ!早速この舟の上で挙式を挙げて、 『あなたー、お弁当ー。うふっ♪』なんて生活を繰り広げようではないか!ララァさーん!!」
「誰がララァだこのぼけー!!」
 どちらからともなくギャア、と聞くに堪えない悲鳴を上げ、少ししてガウリイはひどく揺れる舟から ぼこぼこの男を川へ投げ入れた。ばたりと臥せっていたが、ややしばらくたって起き直る。
つくづくと思案し、

河波の底にこの身のとまれかしなどふたたびは浮きあがりけん

水から上がった幸運をどうして後悔しなければいけないのかとさめざめと涙し、まだ手の震えは 止まらないが、いても立ってもいられぬ様子で、一目散に川から離れていった。
そのまま行くうちに、ある人里に出る。里人はこれを見て「桶人間だ、桶妖怪だ」と指をさし、 怖がりつつ嘲った。「美人、化け物、桶人間」、子供には石もて追われ犬には吠えられ坊主には 襲われかけ、人生の甘いも苦いもしょっぱいも経験し、ガウリイは確実に強くなっていったのだった。
 ところで、この国の国司であられる人は、黒髪長髪年齢不詳の美形おやぢさまである。
都合により中将殿と申し上げる。縁側を歩くことを夕暮れ時の常となさっており、ある日もまた 念仏を鼻歌で歌ったりしながら、ここらの最高の景色をうちのにも見せてやりてえと、 外を眺めて立っておられたが、そこを桶を被った人間が通りかかる。
「おい、そこの。オラそこの桶、お前だよお前。見回したってお前以外に桶被るやつなんざいねえよ。」
 興味を持ってお声を掛けられたところ、桶人間はガウリイという名であると答えた。
「んで、おめーはどっから来たんだ?」
「えーと……忘れた。」
「おいおい迷子かよ。」
「いやあ、家おん出されたから、違うんじゃないか?」
「へえ、じゃあお前、行くところは?」
「……覚えてる限り、ないと思うぞ。」
 中将殿は、天然、とおっしゃる。
「……まあいい、じゃあ俺が雇ってやるよ。面白そうだからうちに来い。」
「ああ、ありがたいが、でもオレ何もできないぞ。」
「それは今から覚えれば良い。何もできないならかえって好都合だ。おめえ桶人間だから、
湯殿の番な。」
 と、中将殿が命ぜられたので、ガウリイは、人生初体験の火焚きを仕事とすることになった。
「ところでおめえ、どんな顔だ?ちょっとそれ取ってみろよ。」
「いや、それが外れなくてさあ。」
 中将殿は力自慢のスポットを呼んで桶を取らせようとしたが、しっかりと吸い付いて、 少しも離れる様子がない。
「すげえな。もしかしておめえの頭の形が桶ぴったりなんじゃねえか?」
「違うと思うが……嫌だなそれ。」
 このように交わして、湯殿の火を焚いたところ、経験のないことではあるが、元々頭を使うよりも 体を使う方が得意である、すぐに仕事は手についた。しかし見る人はそれをおかしなことよと 笑いなぶり、ガウリイは、明け暮れ、「とっとと起きろ桶!お行水だ!」「よぉスポット、 早起きだなあ。」「ディルギア様と呼べ!」と朝は日の出ないうちから無理に起こされ、 日が暮れると、「おすすぎの湯だ!早くしろ!」「テンション高いなあスポット。」「ディルギアなんだー!」
と命令をされ、あざけり見ても情けをかける人はない。
 また、中将殿は娘を二人もっておられ、ともに顔かたちが格別に優れ、上品で優美なお姿で、 光るほどに美しい姫君である。妹の姫君はまだ髪を額に垂らし遊びたい盛りであるので、 桶を被ったガウリイは格好の遊び相手となった。そのせいで、憎らしがる人は更に多い。
 妹姫はリナといって野山に出ることをことのほか喜び、駆け回るさまは紅く彩る蝶が あなたこなたの花に移るようである。男勝りの気性で、怖いもの知らずにガウリイの桶を 叩いては世の姫の習いにそぐわない場所に行き、ガウリイに負われて帰ることも少なくない。
先日もリナ姫はガウリイに会いに来たが、珍しい菓子を目の前で食べて逃げた。

苦しきは折り焚く柴の夕煙憂き身とともに立ちや消えまし

食べ物に関しては常人よりもはるかに執着のあるガウリイは、火焚きと空腹の切なさに耐えながら、 日々涙に袖を濡らさぬことはなかった。
 そのようにして、見た目はリナ姫の付人であるようだが、湯殿の番でありこき使われること に変わりない。時折、

松風の空吹き払ふ世に出でてさやけき月をいつかながめん

と詠んだが、表情は桶の下であり、その心情は月も知らぬものである。常にいびられ微妙に めちゃ強くなりながら、ガウリイは中将殿の屋敷で幾年かを数えた。
 ある望月の晩、リナ姫が湯殿に入るのはいつも夜更けてしばらくたってからで、 家族の中で最後であるが、この日は特に遅かった。ガウリイは不思議に思うが何も言わず、 湯の用意ができたと告げたところ、
「ねえガウリイ、人もいないし、背中流してよ。」
とリナ姫が言う。
「……うぇえええっ!?」
「いーじゃない別に。あんた桶で見えないんだから。」
 見たら撲殺。
「見えないったってなあ、リナがぽこぽこぽこぽこ殴ってくれるもんだから、最近じゃあ板が ぐらぐらしてきてるんだぞ。」
「あらよかったじゃない、桶が外れればもっといい仕事に就けるわよ。あんた腕がいいんだから きっと出世できるし。給料も上がってあたしのストレスも解消できる、まさに一石二鳥じゃない。」
「……入ったら殴るつもりなのか?」
 ガウリイがげちょげちょの自分を思い巡らせば、今まで見たリナに襲われた盗賊のようであるよと、 我がことながらあわれである。
「やあねえそんなはずないじゃないのガウリイったら。今日はちょっと、疲れててさ。」
 戯れで付け足したような言葉が装うような響きであるので、「食いすぎかあ?」と返し、 また、たとえ殴られるにしてもそれだけのことよと思って、湯殿へ入ったことである。
 リナ姫はそれを見て、相変わらず体つきもがっしりとして男らしく、頭も整った唇が わずかしか見えないが、また相変わらず男とは思われぬほどまっすぐで美しい髪である。
いつしかの御参りの時にも、多くの人を見たが、その時にも、これほどの人はいなかったと思う。
(あんたは絶対将来があるのに……。)
 それが自分にないものをガウリイで果たそうという思いでもあることは重々承知していることこそ、 父上のお言葉に素直に頷けず、また父上もリナ姫に強く迫れないものである。
「え〜っと……なあ、背中流すってどうするんだ?」
 ガウリイはおそらく目を逸らして所在無げに立ち、リナ姫はその桶に桶を投げつけた。
「湯殿の番してるくせに知らないの?」
「だってオレ、火焚きだし。」
 リナ姫が溜息をついたところ、力が抜けた拍子に投げたばかりの桶につまづく。
「う、わっ。」
 ガウリイはそれを支えるが、リナ姫は大いに驚き、暴れ牛のように手足を振っておさまらない。
ようやく息をつきガウリイが密かに助かったと思ったところで、リナ姫はぐいとガウリイの腕に 額をつけた。
「……あたしそろそろ年頃なんだって。ケッコン、しなきゃいけないんだって。」
 ガウリイはその言葉に息を呑むが、もとより分かりきっていたことである。そうかとのみ 答えるが、力のないのは仕方がない。
「姉ちゃんもそう言うの。」
「……リナは嫌なのか?」
 やっとそう言った頃にはリナ姫の体は既に湯の温かさも消え、互いの体温を熱とするのみである。
「…………ガウリイがいいよ…………。」
 一瞬、体が強張るが、リナ姫の言葉にひかれ迷っても、心は決まっているのである、
ガウリイはリナ姫の頭を撫で、
「オレは、いつもお前さんの一番近くにいるからな。少し迷ってるだけさ。」
と言う。リナ姫が目を見開き、激しく首を振るのを宥めて、
「それに、オレなんかの嫁さんになってもいいことないぞ。腹へってしかたない。」
と笑い顔をつくる。リナ姫は盗賊いぢめさえこなすので、いやしい身分の者の生活もできなくは ないが、もとよりガウリイがそのようなことを自分に許すはずもなく、また、桶かつぎの 妻ともなれば、今の自分と同じ扱いを受けるであろうことは明らかである。
 髪をまた撫でると、リナ姫は何かに耐えるように口を引き結び、目を逸らし、何も言わずに ガウリイの胸から鳩尾の辺りに手を添わせ、コークスクリューをお見舞いしたところ、その拳は 姫にしておくには惜しいほどで、ガウリイは体に悪そうに震えながら、桶の内側で 「世界が狙える……」とそっと呟いたことである。
  リナ姫は苦しむガウリイをきっと睨み、
「あたしはあんたが欲しいの。」
と言い切る。
「……お前さん、意味分かって言ってるか?」
「? 言葉のとおりでしょ。」
 リナ姫は怪訝な顔をしつつも至極真面目に答えるので、ガウリイははあとため息をつく。
「……それとも、誰か他に、こ、恋文、とか交わす相手でもいるの?……いるんなら仕方ないけど、さ。」
 伏した瞼の下で微かに潤み艶やかに光る瞳は紅の色もなお一層輝き、濡れ冷えた白い肌に 朱の差し唇の赤いのも、龍田の紅葉がどれほどもてはやされようとこれほどではなく、 また、かの楊貴妃や李夫人の美しさもどうしてこれに勝るであろうかという風情である。
ガウリイはおもむろにその細い腕をとり、小さな身体を腕の中に引き込んでしまい込む。
下手に動いたならば、張った糸が切れて頼りなく落ちていくように壊しそうであると思われる。
「……オレはこんなだから。」
 そっと息を吐き、小さく呟くと、リナ姫はきっと睨み上げる。
「なによ。あたしが選んだもんに文句あるって言うの?」
「…………いや、ない。」
 ガウリイはリナ姫を抱え、湯殿を出てリナ姫の部屋へ送る。言葉を交わし、そこで幾夜掛けての 深い契りを結んだが、夜明けの鳥が鳴き始めたので、リナ姫は黄楊の枕と姫であるが いつも使う横笛を渡した。
「これ、あたしの宝物。特に黄楊の枕は姉ちゃんのお下がりなんでそこんとこよろしく。
大切にしなさいよ。」
「ああ、神仏にかけて。」
「ほったらかしにしたり持ち逃げしたら、首根っこ捕まえて姉ちゃん直伝お仕置きフルコースなんだから。」
 消えることは許さないとほのめかす品に、ガウリイはゆっくりと両手を伸ばす。
「……謹んで受け取らせていただきます。」
 リナ姫には、古びた桶の内側で、ガウリイが苦笑するのを確かに見たように思われた ことである。

 その日からガウリイがリナ姫の部屋へ、またリナ姫がガウリイの部屋へ通うようになったが、 ガウリイは湯殿の火を焚きながらその時を心待ちにする自分を滑稽に思う。諦めるのが道理であり、 主人への忠義であり、何よりリナ姫のためであるのに、現実には、湯殿でのリナ姫を見たときに 全てを忘れ、ひたすらに手放したくないと思ってしまったのである。ただ、この道が正しくないとて 後悔はかけらもしていない。「お行水だぞ、桶かつぎ」と責められ、「おー、準備できてるぞ」 と返しながら、

苦しきは折り焚く柴の夕煙恋しき方へなどなびくらん

「煙の方が素直だな」と苦笑し、この短い間に自分を苦しめるものがなんと変わったことかと 呟いた。湯殿の役人のディルギアはそれを聞きつけて、桶かつぎは頭はどうしようもなく 桶だが、声音や立ち振る舞い、体つきなども、ここに前から住んでいる男たちも俺を除いて これよりはるかに劣っている、いやまったく桶さえなかったら女房のシルフィールが犬に 追いかけられて助けられた時にうっとりしていたのも頷けると思い、桶の揺れるのを見て、 無性に「桶かつぎ!柴が足りてねえぞ!」と叫んだのはもっともである。
 ところで、その日もようやく暮れ、リナ姫は常よりも華やかに身支度して湯殿のかたわらの 柴を積んだ閨に佇んでいるが、ガウリイはこれを知らず急いでそこへ帰り、

君来んと黄楊の枕や笛竹のなど節多き契りなるらん

と呟く。この約束を取り付けたのは自分であり、あの宝物をくれたのはリナであっても今日の 約束のための物ではないのに、まるでそれのように間をおかず頻繁に逢ってしまうのは、 自分のせいであり、それを止める気もないことに気づいて困惑する。

幾千代と臥し添ひて見ん呉竹の契りは絶えじ黄楊の枕に

「うどわっ!?……い、いたのか。」
「首赤いよ、ガウリイ。」
 激しく燃える火が早く尽きるように想いの深いほど終わりが早く見えるのではと、全くの 惚気であるが、惚れてますはれてます溺れてます困ってますと言ったところに本人に、 それならば幾千年の添い寝をすれば終わりはなかろうと返されれば、桶からのぞくわずかな顔も 染まって、立つ瀬がないのも当然である。リナ姫には口で敵うはずもなく、想いも言葉に 尽くせぬものであるので、心をこめて抱き寄せる。リナ姫はするりとかわして、 「あたしは『添い寝』って言ったのよ。」
だから準備万端な布団とセットのガウリイを更に誘うなんて恐ろしい事したんじゃないってば、 と続けるが、そのような論がガウリイに通じるはずもない。
「契りって言ったよな。」
「あんたに合わせたの!約束よ、や・く・そ・く!」
 ガウリイは、唇しかリナ姫には見えないが、極楽浄土に咲く花の、開いた先にあちこち露が 光るように輝く笑みを浮かべてリナ姫を引き寄せ囁く。
「そーだなー、もっと約束しようなー。」
「あああうあう……余計な事言っちゃったかも……。」
 何やかやと言いつつ、体は一直線にゴウ!なガウリイである。
 そうこうしているうちにそうこうしていれば人の噂になるのが当然で、二人の仲は 周知の事となってしまった。人々は、
「いくら姫様がお会いになるからといって、桶かつぎめがお近づきになろうなどけしからん。」
「そりゃー色恋沙汰に貴賎はねぇけどよ、だからこそ俺だってあわよくばとか思ってた わけだからして先越しやがって妬ましい!桶の野郎なんざこうだこう!てい!たあ!」
と、口々に噂し、己の不満と相まって、そこらの桶まで憎まない人はいない。
「ちくしょお桶かつぎめ、うきうきしやがって!」
 つまりはそういうことである。
 ある夜、姫が客人の相手をせねばならず、逢うのが遅くなってしまった時に、ガウリイが、

人待ちて上の空のみながむれば露けき袖に月ぞ宿れる

と詠んだことなどは、光の速さでまことしやかに囁かれること限りない。
「いや。足滑らせて池に落ちたの明白だから。」
ときっちり突っ込みを入れたのはリナ姫だけであった。
 とにもかくにも仲は良く、また人にはらぶらぶばかっぷるに見えるので、噂の絶えることは ない。とうとうリナ姫の姉上であるルナ姫のお耳に入ることとなり、ルナ姫は、 「ねえアメリア、最近噂のリナの桶かつぎ疑惑って本当?」
と、留守中の事をアメリア姫にお尋ねになる。
「ええ、本当です!身分も姿も越えて燃え上がる愛!これぞ正義!」
 アメリア姫が自ら燃え上がって申し上げるのを、ルナ姫はいささかの動揺もなく御覧になる。
「じゃあ、別れるように言ってちょうだい。」
「ええっ!?どうしてですか!」
 ルナ姫のおっしゃる事は絶対であるが、幼い頃からのリナ姫の友人であり、真っ赤に たぎる正義の心にそぐわないので、お聞き申し上げると、
「リナの外聞と立場が悪くなるからよ。それもわきまえずリナに手を出す輩は正義かしら?」
と、さすがルナ姫は心得ておられることである。
「あう、あう、あうう……。」
 二つの正義の間で揺れるアメリア姫に、姉上は、紅花の朝日に染まって葉まで照るような 笑みを送られた。
「それとも、ゼルガディスをぶつけて三角関係に持ち込ませようかしら。」



<<つづく>>

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