「どした? ラーグ」
おりしも街道に帰路についていたガブリエフ家の男衆は、突然立ち止まってしまった三男坊のラグリイを振り返った。
蒼白になって震えている様子は、どう見ても普通ではない。
「大丈夫か? またなんか感じたのか?」
いつもの出で立ちに、『斬妖剣』を背負っているガウリイは、戻って末息子の頭を撫でてやる。
彼は元々カンのいい自分以上に、妙なモノを感じてしまうらしい三男坊や末姫の感覚を、全く疑ったコトはなかった。
この実直な気質の息子がこんなに反応しているというのは、ただごとではなかろう。
その信頼の温もりに少し安心したのか、ラグリイはようやく顔を上げた。
「―――父さん、レイナがどうかしたみたい…なんだ」
「なんだ、そんなの別に珍しくないじゃんっ」
軽口が得意の次男坊・バクシイが、チャチャを入れる。
容姿も声もそっくりな二人だが、雰囲気や口調はまるで正反対だ。
「……! そりゃ、そうだけど、…何か違うんだ」
ガウリイは特に急かしたりせず、黙って息子の説明を待っていた。
「とっても…緊張してて…、ひどく怖がってる…みたいな……」
「あのレイナが緊張? そりゃ変だ」
姿形と同じに、父譲りのお気楽な調子で、長男のガルデイが口を挟む。
事実、レイナに限っては、『物怖じ』という単語が当てはまらない。
――それが、『無敵の末姫様』などという異名に変わるのは、もう少しの話になるのだが―――。
ガウリイはもう一度、ラグリイの赤茶色の頭をくしゃっと撫でて、いつもの鷹揚な笑顔を浮かべた。
「よし。とにかく家の方に戻ればいいんだな?」
末息子のうなずきと同時に、ガウリイは大股で歩き始める。
「なら、レイナのトコに急いで帰るぞっ!」
『溺愛〈らぶらぶ〉父娘』と呼ばれている程、仲のいい父に負けないくらい、思いっ切り末妹を可愛がっている兄達だ。
異論などあろうはずもない。
彼等は早足――と言うよりは、ほとんど走るような速さ――で行軍を再開した。
怖かった。
足ががくがくと震える。
彼等の形態もだが、何より、その醜悪な『気』がおぞましかった。
大声を上げて逃げたい衝動を、必死で抑える。
そんなことをしても、彼等は見逃してはくれないだろう。それに――― 「……おにー…ちゃま…」
背中に庇う格好になったレイナを、何としても助けたかった。
ここで誰か大人がいれば――、せめてガブリエフ家の兄達がいてくれれば、何とか突破口を作れたかもしれないが、単独では動けない今のレイナと二人では為す術がない。
そしてアルディスにはまだ、複数の純魔族を一撃で葬れるような呪文のストックはなかった。
何とか一体倒せたとしても、次の瞬間にはもう一体が襲って来るだろう。
そうなったらもう助かる可能性はない。
「……レイナ……、…いいかい…」
かすれる声をなんとか振り絞って、必死に言う。
「…ぼくが…、盾になるから……、なんとか一人で逃げるんだ。
……いいね?」
耳元で、レイナが息を呑むのが聞こえた。
――しかし、返って来た答えは意外なモノで。
「…だめ…! じぇったいにだめっ…!
レイナのしぇい…だもんっ…、おにーちゃま……たしゅけるから…、じぇったい、レイナがたしゅけるんだもん…っ!」
レイナは苦しそうに言いながらも、アルディスの脇からゆっくり這い出して来た。
そして、まるで庇おうとするように、彼の膝の上に座ってしまう。
「ほお? 面白い。何をする気だ?」
「少しなら待っててやるぞ。
それからゆっくり楽しませてもらうとしようか」
魔族は幼子の不安や恐怖を、楽しむように言った。
「レイナ、駄目だ、下がって、逃げて!」
身体をつかんで引き戻そうとして、異様な『気』の集中を再び感じる。
「レイナ!? 何する気なんだ!? …やめろっ!
…やめてくれっっ!!」
アルディスは思わず叫んでいた。
ガブリエフ家の父子達一行は、今度こそ全員、その異様な気を感じた。
ガウリイは、彼方に目をやる。
「父ちゃん…、おれも何か変な感じがするんだけど…」
「さっき言ってたのって、これか?」
長兄ガルデイの言葉に続いた双子の兄の問いに、ラグリイがうなずく。
「―――あっちの森のあたりだ。
おまえ等は危ないから真っ直ぐ家に戻れっ!」
叫ぶなり、ガウリイは走り出した。
さすがに、長身で駿足の父親にはかなわない。
すぐに息子達も追うが、どんどん距離を離されるばかりだ。
『帰るのか? 兄ちゃん』
また、双子がハモる。
「ま・さ・かっ!
父ちゃんの勇姿が久々に見れるチャンス、逃してたまるかよっ!」
無鉄砲な処は母に、怖いモノ知らずは父に、一同もれなく似てしまったらしく、やたらテンションが上がっていた。
もちろん、レイナのことも心配なのだろうが、皆どこか嬉しそうなのは――、気のせいではないだろう―――。
レイナの顔からは、大粒の汗が流れ、息が上がっている。
その身体〈からだ〉の震えは、アルディスまで伝わって来ていた。
それでも詠唱を止めようとはしない。――われとなんじがちからもて
ひとしくほろびをあたえんことを「『どらぐ・しゅれいぶ』!」
刹那。
視界が真紅に塗り替えられた。
アルディスは、レイナの小さな身体が吹き飛ばないように抱きしめているだけで、精一杯だった。
ガブリエフ家でも、リナとアメリアが異様な気配に気付いていた。
「…リナさん、これって…!」
答えず居間の窓を開け放つと、赤い独特の光の炸裂が見えた。
「『竜破斬』―――?
あの方向――子供達がいつも遊び場にしてる森の――まさか、レイナとアルが…?!」
次の瞬間には、母二人は『翔封界』で飛び出していた。
―――あたりに静寂が戻って来て、アルディスが目を開けると―――、そこにはもう魔族の姿はなかった。 すさまじい魔法の威力の痕跡だけが、今のことが夢ではなかった証で―― すぐさま我にかえり、レイナに視線を戻す。
「レイナ、だいじょ……」
抱き直そうとしたレイナの首が、がくんと仰け反った。
アルディスは凍った。
細い小さな身体からは、力が完全に抜けている。
顔色は蒼白をとおり越して―――生気のカケラも感じられない。
「……レ…イナ……?」
そっと、手を顔にかざして―――さらに、胸に当てて――――
「レイナっ!! レイナ――――っっ!!」
アルディスは喉も裂けんばかりに絶叫した。
距離の関係で、先に現場近くに来たのはガウリイが先だった。
必死に叫び続ける子供の声が、まだ煙の上がる森に反響している。
「…アルディス?」
そして、その声は明らかに愛娘の名を呼んでいた。
――レイナもいるのか?
「アルディース!」
ガウリイは一声呼ぶと、再び走り出した。
その呼び声を、今度は飛んでいるリナが聞いた。
「ガウリイ?」
風の結界のせいか、アメリアは聞こえなかったらしく、怪訝そうに見ている。
森が、すぐ近くに来ていた。
二人を見付けた時―――、
アルディスは必死に、レイナを蘇生させようとしていた。
まだ王子自身も幼い身体で、懸命に胸を押し、息を吹き込んでいる。
けれど、何度確かめても、小さな生命は戻ってこない。
もう半泣きになっていた。
「…レイナ…レイナぁ……、死んじゃやだ……、やだよぉ……」
また同じことを繰り返そうとした時、後ろから大きな手が彼を押さえた。
「落ち着け、アルディス。
何があったんだ?」
驚いて振り返ると、淡い金髪の戦士の優しい笑顔があった。
とっさにアルディスは抱き付きたい衝動に駆られて―――、何とか押さえ込む。
嗚咽混じりのとぎれとぎれの説明の間にも、ガウリイは手際よく娘の容体を確かめ、蘇生術を始めた。
さすがに、本気でやると娘のあばら骨が折れてしまうので、手で身体をつかむようにして親指で押す。
「わかった。
ここはオレに任せて、リナを呼んで来てくれ」
「……は、…はい…!」
アルディスが何とか立ち上がるのと、リナ達が『翔封界』を解いて駆け寄って来るのが、同時になった。
「ガウリイ!」
妻の声に振り返ったガウリイは、そこにアメリアの姿も見付けた。
「リナ! アメリア! レイナを診てくれ! 息が止まってるんだ!」
アメリアは一瞬驚いたものの、レイナの身体をガウリイから受けとると、すぐに呪文をかけ始める。
一方、リナは状況を見失って、呆然と立ち尽くしていた。
「リナ」
ガウリイに頬を軽く叩かれて我に返ると、今度は叫んでしまう。
「ガ、ガウリイっ! どういうこと?!
あ、あの子、まさか……!?」
ガウリイは抱き寄せると、背中を軽く叩いてやる。
「大丈夫だ。アメリアがいるんだから」
―――しかしアメリアの呪文にも、一向にレイナの様子は変わらない。
リナはたまらず、愛娘に駆け寄ってしゃがみ込んだ。
「レイナっ!
しっかりしなさい!! レイナ!!」
「……と、父ちゃんっ…!?」
息急き切ってやっと辿り着いた息子達が、ただならぬ気配に、遠巻きにして立っている。
ガウリイは呆れたような、愛おしそうな表情を浮かべかけ――そのまま動きを止めた。
最も気を許している義兄達の出現に、今まで必死でこらえていたモノが切れたようで、アルディスは彼等に向かって走って行くと、しがみついて大声で泣き出した。
「アル!? どうしたんだ!? おい!」
受け止めたガルデイが、肩を揺する。
「……レイナ…が…、レイナがぁ…!」
とっさに、双子の片割れ・バクシイが飛び出した。
けれどそれを、ガウリイが腕で阻むように止める。
「何でだよ、父さん!?」
「――――まだ、いる」
その言葉に、全員が緊張した。
ガウリイはすでに、剣を抜いている。
『……よく…も………、この……』
さっき先に出現した方の魔族が、ゆっくりと空中に現れた。
レイナの『竜破斬』が不完全だったのか、何とか精神世界に逃げ込めたらしいが、片羽が無くなっている。
その四肢が刃のように、みるみるうちに伸びて―――
「させるかあぁっ!!」
ガウリイの叫びと同時に煌めいた銀光に、魔族は両断されていた。「……純魔族…」
リナが呟くように漏らす。
誰もそれを受けることなく、そのまま静かになってしまう。
が、呪文を唱え続けるアメリアの他にもう一人、その呪縛から解き放たれている者がいた。
「………兄ちゃん…、あそこに―――レイナがいるよ…」
そう言って森を指差したのは、ラグリイだった。
あまりに唐突な言葉に、全員がそちらを向く。
しかし、そこにいたのは――――
「何言ってんだよ、ラーグ!
あそこにいるのは、あの子馬じゃんかっ!!
だいたい、レイナはそこにいるんだぞ、どーしてあっちなんだよっ!?」
双子の兄の抗議にも動じず、さらに続ける。
「だって、ほら、子馬の上に乗ってるもの」
「ラーグ……?」
ラグリイの言う通り――、森の境界の所で、さっきの栗毛の子馬がこっちを見ていた。
だが、レイナは間違いなく、開けた所のほぼ中心部にいるのだ。
「……気のせいじゃないの? ラーグ。
レイナはここにいるわよ」
さらにリナが訝しむ。
「違うんだって。
レイナの本体――中身はあそこにいるんだ。
だからいくら術をかけても、身体は目を覚まさないんだよ」
確かに――アメリアの『復活』にも、レイナは蘇生する兆しも見せていない。
けれど――――。
誰の目にも、もう一人の彼女の姿など見えない。
全員がいぶかしげに、ラグリイと子馬を交互に見ていた。
――たった一人、ガウリイを除いて。
「―――ラグリイ、呼んでみろ。
帰って来させるんだ」
「ちょっと、ガウリイ…!」
リナの抗議に、ガウリイは彼女の方を振り返る。
「オレにゃ見えんが、ラグリイがあんなにいるってんだから、いるんだろ。
そう言われてみりゃ確かに、子馬と一緒にレイナの気配もかすかにするしな」
ラグリイは、一瞬嬉しそうな、困ったような表情をしたものの、すぐにうなずいた。
リナはそれ以上何も言えない。
確かに同じ双子でも、破天荒なバクシイと違って実直なラグリイは、滅多に誇張や嘘は言ったことがない。
もし魂というモノが存在して、身体にあることで生きているなら、レイナが息を吹き返さない理由もつく――かもしれない…。
―――でも、本当に……?
「―――レイナ。…聞こえるかい?
ほら、みんなおまえのこと、心配してるよ。
戻っておいで。
でないと、もう一緒に遊べなくなっちゃうじゃないか」
ラグリイは真剣そのものの顔で、子馬に向かって――おそらくは、彼だけに見えている妹に――話し掛け続ける。
それは一種不思議な光景だった。
――しかし、子馬はラグリイを見ているだけで、少しも動かない。
「おい、ラーグ…!」
短気なバクシイが何が言おうとした時――――、
ずっとガルデイにしがみついていたアルディスが、こらえ切れなくなって、泣きながら叫んだ。
「レイナっっ!! 戻ってきてっ!!
どこにも行かないでよっ!!」
その――説得というよりは懇願に、初めて子馬が反応した。
ゆっくりと、まだ頼りない歩みで、こちらに向かって近寄って来る。
誰ももう何も言えず、ただそれを見つめていた。
レイナの身体の所まで来ると、そっとその頬に擦り寄り――そして――、末姫様がほんの少し呻いた。
「レイナちゃんっ!」
「レイナっ!!」
アメリアとリナの叫びに、父と兄達が一斉に駆け寄り、歓声を上げる。
その中でラグリイだけは、戻って行こうとする子馬を撫でて、年にそぐわない静かな微笑みを浮かべて囁いた。
「ありがと。おれの大事な妹を返してくれて……」
子馬は彼の頬に一擦りすると、森の際で待っている母親の所へ駆け戻って行く。
それを見送ってから、ラグリイも妹の所へ駆けて行った。
―――何とか息は吹き返したものの、レイナはそれから三日間たっても、人事不省に陥ったままだった。
「なんせ生体エネルギーを、限界まで放出しちゃってましたからねぇ……、『復活』かけまくっても、きっと、あと何日かは使い物にならないと思いますよ」
結局なしくずしに滞在することになってしまったアメリアが、渋い顔で言う。
「ま、助かってよかった、よかった」
明るく笑うガウリイの横で、リナはふてくされている。
「自業自得よ。ったく、親に心配ばっかさせて…」
「人のこと言えないだろ」ちゅっどーんっ!
「あ、またやってるし」
末妹に近付けてもらえないお子様達は、一番広い双子の部屋でゲームなどして暇を潰していた。
「ほっとけほっとけ。
母ちゃん、イライラしてんだから」
兄ちゃん風を吹かせながら、ガルデイはゲームの駒を並べている。
「けど、ずいぶん『火炎球』の回数多いぜー?」
「ねー。リナおかーさん、ふっきげーんっ」
バクシイが訊き返し、その膝に抱っこされた格好のエリディアが同意する。
「大丈夫だって。父ちゃんには、奥の手があるんだから」
「なんだい? それ」
今度は、ラグリイが訊く。
「そのうち、わかるって」
ガルデイは意味ありげに笑う。
このネタは、とても齢ひとケタのお子様仕様ではないのだが、照れもせず言ってのけるあたり、なかなか大物である。
「おーい、アル。まだ入んないのか?」
カードを配ろうとして、ガルデイは斜め上、ベッドの上を振り返った。
「……いい」
その壁際には、アルディスが膝を抱えて座っている。
「んな気にしてても、まだレイナには会わせてもらえないよ?」
ラグリイは彼を心配しているらしい。
なんせ、レイナが倒れてからこっち、ずっとこの調子なのである。
元々繊細な性格には、この一件は余程ショックだったのだろう。
ほとんど口もきかず、落ち込んでいる。
これには、『腹違いの三つ子』と称されたバクシイとラグリイも、やたら面倒見のいい長兄のガルデイもどうしようもなかった。
実の妹のエリディアも、こんな時は放っておくしかないと思っているらしく、お気に入りのバクシイの膝を占領して、兄からなるべく離れている。
何だか、気まずい空気が、部屋の中に満ちてしまった―――。