とんとんっ!
唐突に、部屋の窓が叩かれた。
一斉にそちらを見ると、子供のように無邪気な笑みを浮かべた父親が覗き込んでいる。
「おーい! チビ共ー!
部屋にこもってないで、外に来ーい。いい天気だぞー」
「おうっ! 行くぞっ!」
ガルデイが真っ先に、飛び出して行く。
バクシイは窓を開けて出ようとした。
「おい、バーク。エリまでそっから出す気か?」
ラグリイに止められ、舌打ちをする。
「ちえーっ」
エリディアの背丈では、ここから降りられないのだ。
それでも、いつも得意の無茶をするとは言わないところが、バクシイが彼女を見かけ以上に大事にしているという証拠だった。
そして、ラグリイもそれを十分知っている。
結局バクシイは、エリディアと手をつないで、ドアから素直に出て行った。
ラグリイも行こうとして、ふと立ち止まり、振り返る。
アルディスだけは―――、さっきの姿勢のまま動いていなかった。――ふいに、右側に暖かさを感じて、アルディスは目をやった。
いつの間にか、ラグリイが隣に座っている。
「…ラーグ…?」
ラグリイは笑っているとも、淋しそうともとれる、微妙な表情をしている。
「―――あの時さ。おまえが呼んでくれて、助かったよ」
「……?」
「おれ、レイナがあの子馬に乗ってるの――はっきり視〈み〉えてたんだけど、正直言って、呼び戻せる自信なかったんだ」
「……!」
「レイナがやたら、楽しそうだったんだよな。
子馬の方も、あいつを気に入って離したくないって言ってて―――」
「…言ってた…?」
ラグリイは肩をすくめて、苦笑して見せる。
「『声』じゃあなかったけど、そう聞こえたんだ。
あそこでもし父さんも信じてくれなくて、そのままだったら―――、きっと、レイナは――連れて行かれてた」
「…そんな…の…」
その意味を悟って、アルディスはぞっとした。
「レイナは、『身体から離れてる』って自覚ないみたいだったし。
おれがいくら言っても、気付いてくんなかったし―――。
みんなにはわかんなかったろうけど、おまえに呼ばれてやっと、こっちを見てくれたんだぞ」
アルディスが顔を見ると、ラグリイはにっこりと笑った。
「だから、さ。
レイナを助けたのは、おれとおまえなんだ。
あの子が元気になったら、また護ってやろうな」
自然に滲んで来た涙をこすって、アルディスも笑い返した。
「…うんっ」
「さ、外に行こ」
二人は手をつないで部屋を飛び出した。
「おー、来たか!」
お日様のような明るさで、ガウリイが二人に笑いかける。
「…ガウリイお父さん…」
おずおずと言うアルディスの頭を、義父はがしがしと撫でた。
「みんなで楽しそうにしてたら、レイナも一緒に遊びたくてはやく元気になるさ」
うなずくアルディス。
――誰もがレイナのことを心配しているのは同じなのだと、やっとわかった気がした。
一同はここ何日かの鬱積を晴らすように、思いっ切り遊び回った。
寝室の窓から見ていたリナは、まだ眠ったままの娘の頭をそっと撫でた。
「レイナ。みんな楽しそうに遊んでるよ。はやくおいでって」
「おーい、アル、どーしたー?」
遊びの輪から抜けて、家に向かうアルディスに、バクシイが声をかけた。
「ちょっと、トイレー」
用を済ませて、また外に戻ろうとした時、アルディスは廊下でアメリアの姿を見付けた。
「お母さーん」
「あら、アル」
「レイナはどう?」
アメリアは駆け寄って来た息子に、今朝までの重さが無くなっていることに気付いた。
「まだ眠ってるけど――少し顔を見たい?」
アルディスは、思い切りうなずく。
「静かにしてるのよ」
母に促されて、レイナがいる両親の寝室に入ると、付き添っていたリナが振り返った。
「リナさん、この子もだいぶ落ち着いたみたいだから、ちょっとだけレイナちゃんの顔見せてもいいです?」
「いいわよ」
言いながら、椅子から立ち上がる。
「アル、あたしとアメリアは一休みしてくるから、少しの間頼むわね」
「は、はい」二人が出て行ってしまってから、アルディスはレイナに近付いて行った。
両親の大きなベッドに寝かされているせいで、小さな末姫様の身体は、布団という海に沈んでいるように見える。
あの時ほどではないが、まだ顔色はあまり良くなかった。
顔を撫でようとしても、アルディスの背丈ではベッドの縁から届かない。
仕方なく靴を脱いでよじ昇ると、添い寝するように隣に陣取る。
「……レイナ…」
頬に触ると、少し冷たい。
それが辛くて、自分の頬で暖めるように頬ずりする。
「レイナ…、はやく起きてよ……」
気付かないうちにまた涙が溢れて来て、レイナの頬にも落ちた。
「……あ…」
慌てて拭っていると、レイナの瞼が少し動いたように見えた。
「レイナ?」
アルディスの呼び声に答えるように、ほんの少し目が開いた。
「……レイナ…!」
まだぼんやりしているのか、返事の代わりに、アルディスの方を見る。
「…レイナ、わかるかい?
ぼくだよ、アルディスだよ」
温かい手に頬を撫でられて、ようやくレイナは口を開いた。
「……おにー…ちゃ…ま……?」
「そうだよ。……よかったぁ」
アルディスは嬉しくて、再び頬ずりする。
「……レイナ……どう…したの…?」
「…覚えてないのかい?」
「……うん…」
無理もない、とアルディスは思った。
自分でさえ、あれほど怖かったのだ。
まだこんな小さなレイナが平気だったはずがない。
――なのに、自分のために、必死で立ち向かってくれたのだ。
それがいじらしくて、切ない想いが胸を満たす。
「―――無理に思い出さなくても、いいんだよ。
もしまたあんなコトがあったら、今度は、必ずぼくがレイナを護るから…」
思わずアルディスは、ぎゅっと抱きしめていた。
「…? …おにーちゃま…?」
毛布から出てきた小さな手が、アルディスの頬を撫でる。
その暖かくて、ふにふにした柔らかさが心地好い。
アルディスはそれを大事そうに、そっと両手で握った。
「…レイナは、ぼくに護ってもらうの、―――嫌かい?」
「……じゅっと、…レイナのとこに…いてくれるの…?」
「うん。
レイナがいてって言うなら、一生でもいるよ」
レイナは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「やくしょく?」
「約束だよ。ぼくは一生レイナの側にいて、護ってあげるから。
絶対、忘れちゃダメだよ」
「うんっ。…おにーちゃま…、だーいしゅき…」
アルディスは幸せそうに微笑んで、レイナの額に口づけた。
「――――今、なーんって言ったのかなぁ? アルディース」
心持ち、リナの笑顔が引きつっている。
「はい、だから、レイナはぼくが一生護ります」
「まあ、アルったらー。
それじゃ、レイナちゃんを、お嫁にもらうってことになるわよ?」
居間で息子の報告を聞いて、あまりに早すぎる騎士ぶりに、アメリアはからからと笑った。
「…そうなの?」
「だって、男の子と女の子が、一生一緒にいるって言ったら、そういうことになるじゃない?」
きょとんとしていたアルディスは、母の指摘に少し考え込むと―――、にっこりと笑ってきっぱり答えた。
「うん。レイナは、ぼくがお嫁にもらうよ!」
ずべべべっ。
リナは見事にすっこけた。
『だめ!!』
齢七歳にして早々と、アルディス=フィル=ロッシュ=セイルーンは、いわゆる『人生の試練』にさらされていた。
『だめったら、だめっ!』
見事にハモるガブリエフ家の三兄弟の勢いに、思わずあとずさる。
脇の椅子に陣取って、きょとんとした目でその様子を見ているのはガウリイ。
異様な雰囲気に戸惑うエリディアを、しっかり膝に抱いている。
「な、何でだよぉっ!」
外から居間に戻って来た一群に、喜々として報告したアルディスを待っていたのは、兄弟同然の親友連中の猛反対だった。
「何でじゃねーよ」
「おまえ、レイナがいくつだと思ってんだ?」
「なかなか戻ってこないと思ったら、なーにしてたんだか」
「レイナはおれ達の大事な宝モンだ。誰にもやんないからなっ」
「まだ相手決めンのは、早いと思うぞー」
「レイナはいいって言ったのかよ?」
矢継ぎ早に飛んで来る攻撃に圧倒されながらも、アルディスは必死に食い下がる。
「……レイナは、レイナは喜んでくれたもんっ…、ぼくが護っていいって…言ったんだからっ…!」
「ばかたれ」
「レイナに、ンなことわかるかよ?」
「意味なんか通じてないって」
「お嫁になるなんて言ったのか?」
「……うっ…」
主張虚しく、痛い処を付かれて、半泣きになる。
「……でも…、でも、もう決めたんだからっ。…レイナは誰が何て言っても、ぼくが一生護るんだからっ!」
「……わたし、レイナがきてくれると、うれしーけどなぁ…」
エリディアの助け船に、兄は嬉しそうな表情になった。
しかし、それも一瞬のことで――――
「あほぅ」
「エリがレイナをお嫁さんにするわけじゃないだろ?」
今度は、エリディアにも攻撃が飛び火する。
「……ふぇ…っ…」
お姫様はガウリイにしがみついた。
「まあ、みんな待てって」
なおも険悪になっていく不毛な対決に乱入したのは―――、それまで、オブザーバーに徹していた父だった。
「父さんは黙ってろよ!」
「父さん、レイナが可愛くないのか?」
「父ちゃんは、レイナは皆のモンだって、言ってたじゃないか」
最後の、長兄ガルデイの抗議を受ける。
「言ったさ。
だから、アルディスにも権利はある。そうだろ?」
「…ガウリイお父さん…」
アルディスは、意外な救援に驚いていた。
「――ただな。おまえもレイナも、結婚なんてのはまだまだ先の話だ。
これから先どっちにも、他に相手が見付かるかもしれない。
長い間には、気持ちが変わることもありえる」
「……そんな……」
アルディスが、呆然としたような呟きをもらす。
ガウリイはいつもの鷹揚な笑顔を向ける。
「先のことは、誰にもわからんさ。
もし、おまえの気持ちが、ずっと変わらなくて―――、
レイナが『運命の相手』って思い続けられたら、それはそれでいい。
――だがなぁ、レイナにも同じように、選ぶ権利はある。
おまえはその時に、ちゃんと選んでもらえるように、『いい男』にならなきゃな。
それまでは、レイナは皆のモノってことだ」
悠々とした父の物言いに、一同、静かになってしまう。
――そして、アルディスはガウリイの目を見た。
「―――わかりました。ぼくの気持ちは絶対に変わらないから。
必ず、レイナに選んでもらえるような男になります」
その力強い言い方に、兄弟達は何となく勢いをそがれる。「―――やれやれ。たった三つで『白馬の王子様登場』とは、ウチのお姫サマはおモテになりますこと」
そう言いながら、リナがドアを開けた。
「レイナ!」
アルディスの叫び通りに、リナの腕には大きめのガウンに包まれるように、末姫様が抱っこされている。
「皆に会いたいって言うから、ちょっとだけ連れて来たわ」
『レイナっ!』
兄弟達が駆け寄る中で、レイナは目を開けた。
一同に口々に名を呼ばれ、姫君はゆっくりと視線を巡らせる。
「レイナ!」
そして、アルディスの声に、にっこり笑いかけ―――
「ガウリイお父さん! 降ろして」
自分も行こうとするエリディアの声に、そちらを見る。
下ろしながらゆっくりと立ち上った父は、にっこりと満面の笑みを愛娘に向けた。
途端、母の腕の中から精一杯手を広げて、レイナがその名を呼ぶ。
「おとーしゃんっ!」
「おー、レイナっ。やーっと起きたか」
大股で近付くと、リナから娘をひょいっと受けとり、ひとしきり頬ずりする。
「おとーしゃんっ」
ほんとうに嬉しそうな、レイナの声。
頭の上で展開する父娘の熱いらぶらぶシーンに、かやの外にされた子供達は、ぼーぜんとしていた。
「……父ちゃんっ、反則だって」
「だーれが皆のモンだってぇ?」
「……おにーちゃん…、かわいそー」
「先は長そうだな、アル?」
アルディスは幸せそうな二人を見て―――、深く深く、ため息をついた。
―――アルディス=フィル=ロッシュ=セイルーンの、このあまりに一途過ぎる初恋が成就するのは、―――実にこれから十三年もの長い年月を経た後のことになる。
生涯の伴侶を定めたのは兄弟達の誰よりも先でありながら、実際に行動を起こしたのは一番最後というのは、この辺がトラウマになっていたせいかもしれない。
何にしても、この時の彼は、まだまだ沢山の時間と紆余曲折が待っていることを、自覚するしかなかったのである――――。