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夏である。
夏と言えば、暑い。
暑いとなれば、涼みたくなる。
涼みたくなると言えば、海or山。と、言うことで。
ガブリエフさん一家は、海に来ていた――。
「ひゃっほーーーーい!!」
目の前に開けた海に、誰よりも真っ先に楽しげな歓声を上げたのは、誰あろう、リナ=インバース=ガブリエフ。
その名が示す通り、『人妻』を通り越して、今や4人もの子供の『母親』までやってるというのに、童顔と華奢な身体付きはあんまり変わっていない。
もちろん強い魔力のせいもあろうが――何よりもほとんど変わらない中身が一番影響しているに違いないというのは、周囲の一致した見解である。
今も荷物と子供達を旦那であるガウリイに任せ(おしつけ)て、一目散に海岸の方に走っていく。
そこはそれ、楽しいコトには常に一番乗り――という母の性格はよーっく知っている家族達。
いまさらあきれるはずもなく。
それどころか、両親譲りの元気印の男の子ズ、もちろん黙って見ているワケがない。
すぐさま、後を追うように駆け出していく。
後に残されたのは―――。
テンポが極めて緩やかに流れている末娘のレイナと、多量の荷物を持たされてたせいで出遅れたガウリイのみ。
「おかーしゃんたち、はや〜い」
極めて平和ににこにこと笑う小さな娘の頭をなでて、長身の父は苦笑する。
「ねー、おとーしゃん。
あのおとーしゃんのおめめみたいないろの、おっきいみずうみが『うみ』なの?」
レイナが指さしているのは、眼前の海。
少し入り江になっているので、真ん中から右側にかけては砂浜だが、左側は露出した岩が視界を遮るように、沖の方に突き出している。
「ん? 『湖』じゃなくて、あれが『海』ってもんなんだぞ」
ガウリイはすっかり忘れ去っているが、レイナにとっては今日が初めての海水浴なのだ。
一家が居を構えているゼフィール・シティは――まあ日帰りは無理としても――生涯一度も見れずに終わってしまう程、海から遠く離れているわけではない。
実際リナ達も、男の子達がまだよちよち歩きの頃、実家の商売関係の知り合いに別荘に招待してもらってからは、毎年のようにここに遊びに来ている。
別にプライベートピーチというわけではないのだが、近くにしっかり管理された海水浴場がある関係で、一種の穴場になっているらしい。
まあ、お仕置きと称して、リナがしょっちゅう『水竜破〈シーブラスト〉』などかましたりするので(皆の平和のためにも)他の客達はいない方がいいに違いない。
――ただ、無敵のガブリエフ一家にありながら、同じ年の子供達に比べても小さくて体力の薄い末娘だけは、少し大きくなるまではと様子見していたのだ。
本や兄達の話で『海』の存在は知っていても、初めて直に見た幼子にはまだ実感が伴わないのだろう。
いつものように、愛くるしく小首を傾げ――
「どーちがうの?」
「うーんっと――、すっごく広くてな。
波があって、水がしょっぱい」
――リナが側にいたら、間違いなく頭を抱えそうである。
「『なみ』ってなーに?」
その大きな手で、海の方を示すガウリイ。
「ほら、水の上で白くって動いてるのが見えるか?」
「うん。もよーみたいだね」
「あれが『波』。
水が岸に向かって、うち寄せて来るんだな」
「どーして?」
――――――。
答えに窮して、ガウリイは頭をかく。
上の三人の男の子達にもそれなりに訊きたがる年頃というのはあったが、この娘〈コ〉の場合は正直ツライ時がある。
それでも、誰よりも愛しいリナそっくりの可愛い娘のコトとなれば、とてもムゲは出来ず――。
「―――――そーだなー。
せっかく現物が目の前にあるんだから――まずは自分で確かめて見たらいいんじゃないか?」
レイナは一瞬きょとんとしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「そーだね♪」
「じゃ、オレ達も行くか」
「うんっ」「こぉらっ! あんた達、ちゃんと準備運動しなさいっ!!」
借りている別荘を出る時にあらかじめ服の下に水着を着て来たとは言え、服を脱ぐのももどかしく海に駆け込んで行こうとする上の二人に、リナの(一応)母らしい怒号が飛ぶ。
それを横目に、慎重な性格の末兄のラグリイだけは、リナの脇で黙々と身体をほぐしている。
8歳の子供にしてはちょっと複雑な心境になる光景だが、この子はいつもこんな感じなので、もう慣れてしまったとも言う。
顔を見ないで話していると本当の年齢を忘れてしまうコトがあるくらい、どんどん大人びていく不思議な息子なのだから――。
双子の兄のバクシイは、そんな弟が面白くないらしくて、やたらと反対なコトばかりしている。
今回も渋々ストレッチを始めたが、かなりいい加減だ。
一方、一番父親似の長男・ガルデイは、やっぱり単に忘れていただけなのだろう。
目の前に広がる海の方ばかり見て、心ココにあらずという表情ながら、それなりにしっかり体操に励んでいた。
「おーい、リナー。
荷物ここでいいのか?」
「いいわよー。
今日は風があんまりないから、そのまままとめてシートかけといて」
言われた通りに荷物を置き始めたガウリイの横から、あぶなっかしい足取りで海に近付いて行くレイナ。
「待って、待って」
リナは慌てて制し、その場で服を脱がせ始める。
「ねー、なんでみんな『たいそー』してるの?」
あくまでノンビリした舌っ足らずな口調で、レイナが再び問う。
「いきなり冷たい海に入ると、身体〈からだ〉がびっくりするからよ」
「すなはまで『たいそー』するのに、『うみ』がちゅめたくなくなるの?」
「……いや、そういうことじゃなくて……」
今度はリナが答えに詰まる番だった。
「つまり〜、身体が冷たくなると、動き辛くなるでしょ?
だから、少し運動してあっためておくの」
「そーなんだー。
――でもぉ、みずのなかでちゅめたくなるまえに、いっぱいおよいじゃえばあったくならない?」
「…………………………」
どう答えたら、この齢4歳の末娘は納得するものか。
身体のトロいテンポとは思いっ切り反比例して、極端な高速回転が可能らしい頭から飛び出してくる疑問は、やたらに素朴なクセに、お子ちゃまレベルの答えでは間に合わない場合が多々あり――。
ガウリイだと単に詰まるだけでも、リナの場合はヘタに答えようモノなら、延々と質問が続くハメになってしまう。
――こ、ここはガウリイのらぶらぶスキンシップで乗り切るしかない!
リナが荷物の方を見ると、すでになだめ役の亭主の姿はなし。
「くぉらぁっ、ガウリイっっ!」
とっさに投げた娘のビーチサンダルが、海に向かって逃亡を企てていたガウリイの後頭部に命中した。
「ちょっとおいで、レイナ」
波打ち際で成り行きを見ていたラグリイが、小さくため息を付くと手招いてきた。
「なーに、ラーグおにーしゃん」
砂に足を取られそうになる娘をフォローしながら、リナも海の方に向かう。
親としては少々情けなくはあるが、レイナを問答で納得させるのはこの末兄が一番上手かったりする。
単に同じような不思議感覚を持っているせいだけでなく、この年ですでに要点を整理してまとめる能力に長けているらしい。
「ほら、両手を水につけてごらん」
横に同じようにしゃがんで、レイナが素直に従う。
いったいどうやって収拾つけるつもりなのか、リナも好奇心にかられてのぞき込んでいる。
「どう? つめたい?」
「うん、ちゅめたぁい」
「じゃあ、右手だけ貸してごらん」
差し出された小さな手を、やっぱりまだ小さな兄の両手がふにふにともみほぐす。
「左手は、水の中でにぎにぎしてて」
少しそうした後、ラグリイは妹の右手をまた海に浸した。
「どっちの手があったかい?」
レイナは大きな栗色の瞳をきらきらと輝かせて、兄の方を向く。
「こっちのて!」
右手で水面をぴしゃぴしゃと叩きながら、こくこくと頷く。
「そっかー、こういうことなんだぁ〜」
ラグリイの方も、優しい笑顔を返す。
「――お見事」
母の呟きに、謎の三男坊はちょっと笑顔を意味深モードにして振り仰ぐ。
「あとはよろしく」
そのラグリイがようやく泳ぎ出した頃には、もうガウリイと上の兄達はかなり沖の方まで行ってしまっていた。
ちょうど近くの水面に顔を出したガルデイとバクシイは、少し離れた所を移動していく金色の帯を見つけた。
「――あれって、父ちゃんだよな」
「親父のヤツ、よくあれで泳げるよなぁ。
いくら母さんに三つ編みにしてもらってるったって、じゃまになんないのかね?」
言いながらバクシイは、塗れて額に貼り付いた長めの前髪をうるさそうにかきあげる。
「そりゃ、父ちゃんだから……」
不意に二人は顔を見合わせて、にっこり笑い――。
そのまま、父親の方に向かって勢いよく泳ぎだした。
「みんな、およぐのじょうず〜。
おかーしゃんもじょーずなんだよね?」
あらためて娘と準備体操していたリナは、ここぞとばかりに胸を張る。
「そりゃもちろん!」
「レイナもおよぎおぼえたいな〜」
――――――。
リナは内心で冷や汗一筋。
運動神経の接続系統を確かめてみたくなるくらい、反応にタイムラグのあるこの娘を『泳げる』レベルまでにさせるのは、ガウリイにモノを覚えさせておく位に、えらい難問のような気がした。
――兄ちゃん達の場合はどうしたっけか?
記憶を辿って――吹き出しそうになる。
――最初はガウリイがまとめてぽいぽいと海に放り込んで、おのおの勝手に泳ぐのを覚えさせたんだっけ。
まことに荒っぽい話ではあるものの、それでも溺れなかったあたりはさすがの運動神経と言うべきか。
しかし、それが末娘に適応不可なのは考えるまでもなく――。
「そ、そうね〜。
じゃあ、まず、海に入るコトから始めなきゃね」
リナはレイナを抱っこすると、水際でゆっくり下ろした。
「うにゅ〜、ちゅめた〜いぃ」
生まれて初めて入った海の予想以上の冷たさに身をすくませたレイナは、反射的にリナにしがみつく。
川や湖と違って、波が大きく打ち寄せてくるというのにも、けっこう戸惑っているのかもしれない。
「まだ足首まで浸かったばっかよ。
水に顔を浸けても平気にならないと、泳ぐのは無理なんだけどな〜」
「そーなの?」
「そうそう。
もうちょっと深いトコまで行ってみるわよ〜」
今度はリナのスネの半分ほどまで、水の中に進む。
娘の身長なら、膝くらいだろう。
「はーい、下ろすわよ」
リナはゆっくりと手を離し――
「――ん?」
離したはずのレイナの頭の位置が、一向に変わっていない。
「レ〜イ〜ナ〜」
「ふみゅ〜、だってぇ〜」
「いくら水がコワイって言ったって、『浮遊〈レビテーション〉』で水面に立ってたら、いつまでたっても慣れないでしょ〜に!」
この華奢な娘をぶん殴るワケにもいかず、リナは深々とため息をついた。
一方、少し深みに潜って海の中を眺めていたガウリイは、息苦しくなって海面に上がろうとして――
ぐいんっ!
いきなり、後ろから髪を引っ張られた。
――!?
最初は何かに引っかかったのかと思ったものの、視界の端に動く肌色が入った。
――とすれば。
こんなコトをするのは、だいたい誰か決まっている。
その一人であるリナはまだ海岸にいるはず――となれば、あとは考えるまでもない。
ガウリイは太い三つ編みの根本を後ろ手に掴むと、そのまま背後に向かってわずかに泳ぎ、髪をたわませ――
次の瞬間、頭の方から背面ターンする要領で、素早く犯人達の後ろに回り込む。
驚いた二人が父の髪から手を離した時には、すでにがっしりと両手でひとまとめにホールドされていた。
一気に形勢逆転されたまま、強制的に海面に連れ戻される。
ガウリイは荒い息を付きながらも、にっこりと笑う。
「まぁだまだ負けんぞ」
ガルデイは楽しそうに笑い、バクシイは不機嫌そうに唇を尖らした。
「――あのねぇ、レイナ。
海の中には、お魚さんとかが沢山いるのよ〜」
「おしゃかなしゃん?」
リナの誘導は見事にツボを突いたらしく、レイナの瞳がきらきら輝く。
何せ無類の生き物好きな上に、向こうからもやたらと好かれまくる末姫様のコト、陸だろうと海だろうと会いたがらないわけがない。
「おさかなさんだけじゃないわよ。
イルカさんとかクジラさんとかもいるんだから」
「わーい、レイナ、うみにはいる〜!」
リナの手からするりと抜けて、自分からあっさり足を浸ける。
「ねえ、おかーしゃん、おしゃかなしゃん、どこらへんにいるの?」
「うーん、もうちょっと深いトコかな?
お魚さんは水の中じゃないと息が出来ないからね〜」
「そっかー。
レイナたちは、みずのなかじゃ、いきできないんだよね?」
「そうそう。だから、泳げるようにならないとね」
「うん、レイナ、およげるようになる〜」
リナは娘の無邪気さに、苦笑していた。
実は、泳げなくても水の中に入る裏技はある。
すなわち――『浮遊』や『翔封界〈レイウイング〉』で空気の塊を作って潜るコト。
けれどそれを教えたら最後、魔力に関しては自分より破格なこの娘は即、実行してしまうに違いない。
まだ海に顔を浸けたコトもない状態でそんなことをしたら――。
万が一、何かで魔法が解けた時には助かる術〈すべ〉はない。
そんな危険なのを、今すぐ教えるわけにはいかなかった。
気の短いリナにとっては、唸りたくなるようなまだるっこしさMaxだが、世間一般の親の場合は、こんな風に段階的に手順を踏むのがフツーなのである。
ここは覚悟を決めるしかない。
「じゃあ、次は腰まで浸けてみようねー」
「はーい」
リナが教えなくても、やはり子供というのは親が思っているほど安全な存在ではなく。
少し深いあたりでその裏技潜水を楽しんでいるのは、マイペースな三男坊。
おそらく自分で思いついて試してみたというところだろう。
レイナほどではないにしても、いろいろ不可思議な感覚の持ち主のラグリイにとっては、海中というのは別な意味で面白いものらしい。
まだ長時間維持していられないものの、それでも普通に潜るよりは長く眺めていられる。
レイナにこのことを伝えなかったのは、彼なりにリナと同じような危惧を抱いたからなのだが――。
反面、妹が喜んだ時に発する『正の気』が大好きな兄は、ここに一緒に連れて来てやったらどんなだろうとも思わずにはいらなくて。
自覚のないまま、ちょっと呆れたような苦笑いが浮かんでいた。
すっかり三つ編みのほどけてしまったガウリイが、浜辺に戻ってきた。
「やられたわね〜」
「ああ、やられたぜ」
娘の腰くらいの深さで、一緒に遊んでいたリナが苦笑する。
「お、レイナ、入れるようになったのか」
「うん、はやくおよげるようになって、おしゃかなしゃんとあそぶの〜」
ガウリイも、二人の様子を見ながら苦笑。
「しょーがないわね〜」
「悪ぃ、頼む」
そのままリナは娘に向かって――
「ちょっとガウリイの髪直してくるから、ここで遊んでてね」
「うんっ。
おとーしゃんのかみをあむのは、おかーしゃんだけだもんね」
レイナの無邪気な声に、リナはかえって真っ赤になってしまう。
ガウリイはやたら嬉しそうに、目を細めるようにして見つめていた。
「てっ……」
唐突に左手に走った痛みに、ラグリイは小さく声をもらした。
確認してみても、少し甲が赤くなっているだけで、キズらしきものはない。
ちょっとばかり苦々しい表情を浮かべると、術を解いて水面に上がり。
ぐるっと見渡してから、ある方向に向かって泳ぎだした。