きゅっ、きゅっ、きゅっ。
気温が下がってきた証拠を、足音が告げる。
昼間に積もった雪は、もう止んでいた。
もう根雪が山盛りになった今では、足首までの新雪など誰も気にしていない。
晴れた空は冴えた星を瞬かせている。
普段は街灯がなくて物騒な小道を、あえて選んで歩く。
こんな寒い時期に好んで出没する酔狂な輩はいないだろう。
ほのかな雪明かりは、辺りの景色を暗くもなく、明るくもない、不思議なモノに変えている。
あたしは、その風景が好きだった。
バイト帰りに立ち寄ったスーパーの袋の立てる音が足音に混じるが、それ以外に音はない。
遠くの車の音は、雪が吸い込んで消し去っていく。
晴れた空に暖かさを手放してしまった空気は、凛と張りつめたようで、冷たさで存在を主張していた。
今夜はかなり冷えそうだ。
「――ん?」
『それ』に気付いたのは、ほんの偶然。
あたしのアパートのすぐ近くにある公園。
近所の子供達のためにと申し訳程度に作られた場所は、それこそ猫の額ほどしかない。
それも今の時期は、ご近所にとっては恰好の雪捨て場になっている。
半ば雪に埋もれたスペースに、ちょっと異様なモノが見えた。
目には自信がある。
まして今日は、雪明かりでモノの判別ははっきりと付く。
あたしが夢でも見ているんでなければ。
――あれって―――
「ちょっと! 開けて!! ゼルってば!」
アパートのドアをご近所迷惑にならない程度に連打する。
『そんなに叩くな!』
中から声がして、ようやくドアが開いた。
「おまえなぁ、チャイムってモノの存在を知らんのか?」
部屋の主は不機嫌を隠そうともせずに、チェーンを外しにかかる。
こいつの文句はいつものコトだ、気にしない。
「ご町内で遭難者を出したくなかったら、手伝って」
「――はあ???」
「――なるほど。
このまま放置したら、間違いなく遭難だな」
公園の雪山の上から覗き込んで、ゼルが妙に落ち着いた声で言う。
「でしょ?」
件の遭難寸前者は、雪山の陰に横たわっていた。
年の頃なら二十歳過ぎ、男にしちゃえらい長い金髪、これまた端正な顔立ちに、細身の長身は黒いレザーコートに覆われている。
一見すると、どこぞの都会からそのままシフトしてきたという感じだ。
まともに歩いていたとしても、ここら辺りではかなり浮くだろう。
ゼルが行き倒れ男の側に移動して、脈を取りながら言う。
「――おおかた酔っぱらって、ここで寝込んだんじゃないのか?
警察でも呼んだ方が早くないか?」
あたしは行き倒れ男を挟んで反対側に回り。
「そう思ったんだけどねぇ。
完全に意識無くしてるじゃない?
このまま放置しといてもいいと思う?」
ゼルはまともにしていればハンサムなはずの顔を、ますます苦虫ツブしたように歪める。
「だったら、さっさと救急車でも呼べばいいだろう?
おまえ、携帯持ってたろうが?」
「だってー、救急車来るまで、あたしにここの寒空に立ってろって言うわけ?
あんた、医学生でしょーが?」
「俺は内科専門じゃない。
それを言うなら、おまえだって薬学生だろ」
「薬剤師は患者なんか診ないわよ。
だいいち、この出で立ちだもの、近くの旦那が泥酔して寝込んだってパターンじゃないと思うわ。
大騒ぎになっちゃって、あとからご近所とかのあらぬウワサになっても困るじゃない?」
ゼルが雪山と仲良くなってるが、この際気にしない。
「夜の救急車って、思いっ切り注目集めるわよ〜。
当然、あんただって事情聴取とかされるだろうし」
ため息を吐くと、ゼルは行き倒れ男の上半身を起こして、腕を肩にかけさせ。
「――とりあえず、ここに転がしておいても何の解決にもならん。
部屋に運ぶから手を貸せ」
「おっけー。
あんたの部屋にね」
見事にコケるゼル。
「何で俺がそこまでせにゃならんのだ!?」
「まさか、あたしの部屋に運べってワケ?
独身の乙女の部屋に、こんな大男を???」
体勢を取り直しながら、またゼルが深々とため息を吐く。
「やっぱり、おまえに関わるとロクなコトにならん……」
1DKのこぢんまりしたアバートは、あたしやゼルのように親元を離れている学生向けな作りだ。
それでなくても本だらけで手狭なゼルの部屋が、あたしと行き倒れ男と言う来訪者のせいで、さらに狭く感じる。
さっき付けっぱなしで出たファンヒーターの前に大男を横たえると、
「リナ、湯を沸かして部屋を暖めろ」
ゼルは指示しながら、クローゼットからタオル、ベッドから毛布を運んできた。
「バスにもお湯張っとく?」
「気が付いても、いきなり熱い風呂は身体に良くない。後からでいい」
「はいはい、未来のお医者様」
あたしはキッチンへ行き、ケトルと鍋をコンロにかける。
「ついでにあたし達にもお茶入れようかー?」
「ああ」
あたしにとって、ここは勝手知ったる場所だったりする。
ゼルは同じ大学の先輩なので、試験やレポートの時にはよく参考書や医学書目当てに入り浸っているのだ。
ゼルが嫌がるので、さすがにマイカップまで持ち込んではいないが、あたしの使うのはもう決まっていた。
紅茶の段取りをして戻ると、ゼルは男のレザーコートを脱がしにかかっていた。
「着せといた方がいいんじゃないの?」
「血行を良くするのに、締め付けてるモノは緩めるんだ。手伝え」
「何だ、またてっきり……」
「それ以上言ったら、俺はもう知らんぞ」
「はいはい」
ゼルが身体を支え、あたしが脱がす担当。
上等とわかるレザーコートの下からは、やっぱり上物のスーツが現れた。
ブランドには詳しくないけど、それが単なる大量生産品でない位は見当が付く。
ライトの元で見ると、金髪は腰より長い。
おいおい、あんた男でしょ???
どーいう手入れすると、こんなにしなやかでツヤツヤになるんだね?
乙女の疑問をヨソに、男は上着やネクタイを緩められ、毛布でミノムシ状態。
「後は意識が戻らんことには、どうにも出来ん」
側に座って紅茶を飲み始めたあたしの横で、ゼルが今脱がせた上着を探り始めた。
「ちょっと、手癖悪いわよ、ゼルちゃん」
「あほぅ! 何か身分証明がないか探してるんじゃないか。
連絡先がわかれば、引き取りに来させられるだろうに」
「あ、なーる」
背広の内ポケットから、やっぱりブランド物らしい立派なサイフが出てきた。
期待に反して、カードの類は入っていない。
こいつ、カードケースを別に持つタイプなのかも。
その代わり、中身には高額紙幣の束が。
あたし達は思わず顔を見合わせる。
うーん、どっちも奨学金もらってる貧乏苦学生。目に痛いわぁ。
「こんなんなら、助けたお礼期待出来るかもね」
「これ以上厄介事はごめんだ」
ゼルはサイフを閉じて元に戻した。
もー、お堅いやっちゃあ。
結局、免許証とか身分のわかるモノは一切見つからなかった。
「ねえ、今時、この出で立ちで携帯電話も持っていないってのは――何かヘンじゃあない?」
「――わざと――かもしれんぞ?」
「? 何で?」
「何か身元を知られたらマズい奴かもしれん、ってコトだ」
妙に緊迫感のあるゼルの物言いに、あたしはリアクションを失う。
コンロにかけたケトルが沸騰音を立て始めたのが、やたら大きく聞こえた。
――んな、いきなりサスペンスかスパイ物のよーな世界を作られても、なぁ。
「そりゃあたしって、フツーの人よりは厄介事の遭遇頻度が高いコトは認めるけど――。
こんなローカルな場所で、そりゃないでしょ―――」
言いかけたあたしは、ゼルの視線が別の方を向いているのに気付く。
先を追うと――行き倒れ男が、目を開けていた。
その色は、どこまでも深い空のような――蒼――だった。