2.なつかしの かの人はまた 謎めいて(その4)
「終わりましたよ」
魔法医の声が、あたしを現実に引き戻した。
「…あ、ありがとうございました」
「―――大丈夫ですか?
あなたも顔色がずいぶん悪いですよ。休んだ方がいい」
「…はい…」
とはいえ、素直にそう出来るはずもなく――、魔法医を見送った後、あたしはガウリイに近付いて様子を確かめた。
呼吸は落ち着いて、表情も和らいでいる。
ほっとため息をついてから、毛布を掛けようとして――、彼がブーツを履いたままなのに気付く。
そういえば、それどころじゃなかったっけ――――
脱がそうと、手を掛けて。あたしは妙なことに気付いた。
――濡れてる…?
ブーツそのものは乾いているけれど、シーツにシミが出来ていた。
それも、底にあたる部分だけに。
――どういうこと…?
ガウリイの髪や服に触れてみるが、どこも濡れてはいない。
強いて言えば、かすかに髪が湿っている気がするが、それはさっきの洗髪の名残だろう。
今日の豪雨である。いくらガードしても、あたしのように風の結界でも張らない限りは、まるきり濡れずにすむということはない。
もちろん、ガウリイにそんな芸当が出来るはずもなし。
でも、その泥付きのシミは、明らかに外で濡らしたということを示している。
――魔族の結界に、何かカギがあるんだろうか…?
とりあえずブーツを脱がせて、毛布を掛け直してから、あたしは横の椅子に陣取ることにした。
――なんか、この宿とってから、こんなシチュエーションばっかだな。
うーみゅ、遠慮したいぞ。こんなパターンの連鎖なんかっ。タオルを濡らして来て、ガウリイの額の汗を拭く。
ずいぶん苦しかったのだろう。長い前髪が張り付いている。
普段、痛いとか苦しいとかいうことをほとんど見せないヒトだけど、今回は本当に辛かったに違いない。
それに気付かずに眠りこけていたと思うと、ひどくすまないという気になってしまう。
「…ごめん、ね…」
無意識のうちに、ガウリイの額に唇を寄せて―――
「……ん…」
びびくうぅっ!
ガウリイの声で、いきなり我に返って、自分のしていることに硬直する。
あ、あ、あたし、今何してたっ!?
うあ、うわあ、うわああああっ!
動揺しまくって、湯気を噴いているあたしをヨソに、ガウリイがゆっくりと目を開けた。
「……リナ…?」
まだ言葉にはいつもの元気がない。
「あ、ガ、ガウリイ、き、気が付いた?
どっか苦しくない?」
あたしは精一杯、平静を装いながら尋ねる。
「……いや……、えらく…怠いが…。…オレ、どうしてたんだ…?」
「それは、こっちが訊きたいわよ。いきなり倒れてるんだもん。
――何があったの?」
「…………」
また忘れてんのか? ガウリイっ!
――いや、相手は病人、怒るまい、怒るまい、怒るまい。
「……さっき、おまえを寝かせてから、自分の部屋に戻って来て―――」
「そりゃ、あたしにも想像つくって。
それからが肝心なの。断片でもいいから、何か覚えてないの?」
なまじ、いっぺんに全部思い出そうなんて欲張ると、ガウリイの頭の許容量越えるだろうから、とりあえず。
とにかく、何かカケラでもわかれば、対策も立てられるかもしれない。
「髪を乾かして、それからメシ食ったり、天気悪いんで、部屋でゴロゴロしてたはずなんだが――、その後が……あと…?」
ガウリイは右手で口元を押さえ、目を細めて、何かを思い出そうとしている。
あたしはベッドの横端に腰を降ろして、顔を逆から覗き込む。
蒼の双眸が、かっ、と開いた。
「ガウリイ?」
「…確か…何か…声がして―――、そう、声が聞こえたんだ。…それから、身体の感覚が…遠くなってくような感じで―――」
「――――!?」
「…そのあとは…、まるでわからん…。…気が付いた時には、全身がバラバラになるような痛みが襲って来て、……おまえが来てくれるまでは―――、全然…」
「魔族の気配はなかった?」
ガウリイはまた目を閉じる。
「…はっきりとは、な。……だが、何か覚えがある気配だったような気がする…」
「覚えがある?」
眉間の皺が、疲れの彩〈いろ〉を濃く見せる。
「…どこでだったかは、…よくわからんが…」
――このまま考え込ませても、ただ疲れさせるばかりで、堂々巡りになる可能性がある。
あたしは、ガウリイの額にそっと手を当てた。
「リナ?」
「今はもういいわ。まだ疲れてるんだから、無理しないで少し休んで」
「だがよ、何があったかわからんと――――」
「とりあえず、今晩はあたしがガードしてあげるから。
あんたは安心して休みなさいって」
「…ばか。おまえだって疲れてるだろ?」
「――そういえば、あたし今日、何にも食べてなかったっけ」
「おいおい」
「何か下で調達してくるわ。
あんたも何か入れといた方がいいでしょ。食べられそう?」
「…少しならな」
「わかったわ。ちょっと待ってて」
ドアの方へ向かおうと、立ち上がり。
「リナ」
声に振り返ると、静かな目をして、ガウリイが見つめていた。
あたしはさっきの所業を思い出して、思いっ切り動揺する。
「なっ、なに?」
かすかに声が震える。
「…あのな。
…クゥス魚の甘酢ソースかけはやめとけ。ありゃ、マズいぞ」
あたしは治ったはずの宿酔いの頭痛に、再び来襲されたよーなしょっくを受けて、倒れそーになった。
「おーい、大丈夫かー?」
こっ、こっ、この男はっっっっ――――!
少しでもときめいたあたしが、バカだったよっ!
―――なに? ……『ときめいた』???
また、胸の火山活動が再開する。
なんなんだよ、これはぁっ!
「…リナ、おまえもまだ具合悪いんじゃないのか?
顔が真っ赤だぞ。熱ないのか?」
「へ、へーき、へーきっ。じ、じゃあ行ってくるね」
ぐわっつぅん!
部屋から出しなに、ドアに頭をぶつけつつ、あたしはふらふらと階段を降り て行った。
てきとーにテイクアウト用に料理を注文して、カウンターに腰を降ろす。
さすがにこの天気のせいで、店の客もまばらだし、歩いている人もほとんどいないようだ。
あたしは客達の足跡で、濡れた床をぼんやり見ていて――、不意に納得する。
――そっか…、ガウリイが食事した時に、この水溜まりを踏んだわけね。
それなら、靴底だけに泥水が付いてても不思議じゃないわけだ。今度は料理する親父サンの手元を見ながら、ふとあることを思い付く。
「親父サン、ちょっと…そうね5分位、外出てくるから、料理出来たら置いといてね」
親父サンは、怪訝そうな顔をする。
「…そりゃ別にかまわんが…。
この天気に外行くのかい? ずぶ濡れになるぞ」
あたしは笑顔を返す。
「大丈夫。じゃ、お願いねっ」
店から出た所で、増幅付きの『翔封界』を唱える。
多少低く飛んでも、通行人が少ないので避けるのが楽々。
一気に、約束の酒場に到着した。
「へい、らっしゃい」
やせぎすのマスターの明るい声を受けながら、店内を見渡すと、やはりここも天気の弊害をモロに受けて、客はえらく少ない。
――が、その中にあたしの目当ての人物はいなかった。
「ねえ、マスター。今日はネイムさん、まだ来てない?」
マスターはあたしの問いに、店内にぐるりと視線を回す。
「…うーん、いつもならこのくらいの時間にはいらしてるはずなんですがねぇ。
この天気だ。
若奥さんに、引き止められてるんじゃないんですか?」
「若奥さん?」
「ご存じないんで? あの人の奥さん、まだ二十歳そこそこなんですぜ。
それが、えらい美人ときてる」
「はあ……」
――おひ。あのおぢさん、いったい、いくつ離れた姉ちゃんを嫁にもらったんだ?
「そういえば、お嬢さん。
昨日、背の高い剣士さんと一緒にいらして、ネイムさんと話し込んでた方じゃ?
今日も約束でもなさってたんですかい?」
「あ、ああ、――実はそうなんだけど…。
連れの剣士がちょっとダウンしちゃったんで、日延べしてもらおうと思って来たのよ」
「そうですかい。じゃあ、もしおいでになったら、お伝えしておきますか?」
あたしは、目一杯嬉しそうな笑顔を作って見せる。
「ほんとですか? それじゃあ、申し訳ないですけど、頼んでもいいですかっ?
今度来た時、お礼におごらせてもらいますから(はぁと)」
「期待しないで待ってますよ」
うっ、このマスター、なかなか客あしらいが上手いヤツ。
「それじゃ、連れが心配なんで、あたしはこれで。よろしくお願いしますねっ」
「お気を付けて」
おっし。これでこっちはオッケェ。
あたしは親父サンに言った通り、正味五分で宿に戻ったのだった。―――雨足は一層激しくなり、時折聞こえる雷鳴は、遠く近く、まだ去る気配はなかった。
かちゃん。
「何よ、もういいの? まだずいぶん残ってるわよ」
「…ああ、あとはおまえにやるよ」
ため息をついて、ガウリイがベッドに上る。
一人前もやっとという感じで、かなり具合が悪そうだ。
「寝てなさいよ、まだ顔色悪いじゃない」
ガウリイが苦笑する。
「おまえもだぞ」
――あたしのは、ちょっと違う気もするけど……。
とりあえずあたしは、テーブルに残った分をせっせと片付けにかかった。
「そんだけ食えれば、大丈夫か」
ベッドに仰向けに寝転がったままで、ガウリイが笑っている。
「…身体が痛いのは治ったわけ?」
「…ああ、それは平気だ。まだ少し怠いがな」
「なら、いいけど…」
「…なんだ、心配してんのか?」
「……いきなり倒れて苦しんでりゃ、心配もするでしょーが」
あたしのむーっとした口調に、沈黙するガウリイ。
「…ガウリイ?」
「…なんか変なんだよな、この頃」
「? 何が?」
「――状況が把握出来ないとか、覚えてない、とかは、まあしょっちゅうだからいいとして―――」
こら。それだってじゅーぶん、よかーないっつーの。
「――この間の盗賊アジトのあたりから、妙に意識がとぶんだよな。
――何て言うか…、かっぽり抜け落ちる、みたいな――――」
あたしは、凍り付いた。
ガウリイの具合の方ばかりに気を取られていて、すっかり忘れていたけど――今回のことも、あの『彼女』と関係がない、という証拠はどこにもないのだ。
「なあ、リナ。これって、何なんだろうな」
ガウリイの問いは、あたしの耳に届いていない。
――もし、今回の一連のことが、すべて何かで繋がっているとしたら?
――その標的が、ガウリイだとしたら?
「リナ? どうした?」
ベッドから半身を起こすガウリイ。
再び―――冷たい悪寒が、あたしの背中に走る。
―――まだ得体の知れないそれが、酷く恐ろしいことに思えて。ふいに、額に大きな手が当てられて、あたしは我に返った。
「やっぱりまだ具合悪いんじゃないのか?
顔色も悪いし、震えてるぞ、おまえ」
「…あ、違う、だ、大丈夫だって。ちょい考えごとしてただけ」
なんとか笑いを取り繕うものの、声がうわずってしまう。
「…そっか?」
あきらかに納得していない、渋い顔をするガウリイ。
「そーう。さ、食器片付けてくるから、あんたは寝てなさい」
「…うん」
―――まだ、ガウリイには言わない方がいい。
何も確証がないうちは、あくまでもあたしの想像に過ぎないんだから―――