1『金糸の迷宮』2

3.よしてくれ 厄介事の 大安売り(その4)



「――俺は、いつも夜明け前にアパートを出るんです…、あ、仕込みがあるもんで…。
 で――あの日は―――

 まだひどい雨と雷が続いていた頃。
 街外れのアパートから、彼は間深にフードを被り、小走りに急いでいく。
 パン屋までの道は多少坂になっていて、用水路の流れは彼の方へと向かってくる格好になっていた。
 稲光に一瞬照らされた時、何かが光ったような気がして。
 彼はそちらの方に近寄って行く。
 そして――見たモノは―――

 ――びっくりして…、その後は曖昧なんです。
 気付いた時には、必死で引き上げてました」
 どこまでも善人なパン職人のにーちゃんは、大きくため息をついた。
「――その時、誰か側にいた?」
 あたしの問いに、彼は少し首を傾げる。
「いたには――いたと思うんですけど…、二人位は…。
 お役人にも聞かれましたけど、はっきり覚えてなくて……」
「そう」
 これは仕方ないか。
 彼は切ったはったの荒事とは、無縁の世界の住人なのだ。
 流れて来るネイムを見捨てて逃げなかっただけ、合格と言わざるを得ない。
 ガウリイを見ると、滅多に見せない考え込んだ表情をしていた。
「――じゃあ、その時、その人がどんな様子だったかも――覚えてない?」
 ガウリイの頬が、ぴくっと動く。
「すごく切られていたのは――判ったんですけど…、それ以外って言うと…」
「どんな些細なコトでもいいわ。言ってみて」
 にーちゃんはちょっと考え込んで――。
「――そうだ…。手が変だって…、誰かが……確か」
「手?」
「ええ。
 左手が――そう、形が不自然だって、誰かが…、お役人が来るまでの間、呟いてたんです」
「どう変だったんだ?」
 ガウリイの問いに、彼は実際に自分の手でやって見せる。
「? なんだ、それ」
 ―――!
 ――彼等には判らない。
 いや、あたし以外には判らない。
 間違いない。
 ネイムは生命が尽きる瞬間まで、離さなかったのだ――あの『書類』を。
「リナ?」
 声をかけられて、あたしは我に返った。
「何か――判りましたか?」
 二人の視線が集まっている。
 あたしは、わざと大袈裟に肩をすくめて見せる。
「――判んないわ。
 でも、それほど大事に『何か』を持っていたなら、物取りの仕業だったのかも――ね」
 物取り。
 ――『光の剣』に関する書類を?
 ――それとも単純に、要職にあるネイムが持っていたから、重要なモノだと思って?
 ――それでも。
 『それ』はどこへ行ったんだろう?
 まさか、ネイムの襲われた謎の一因を担っているとか…?
「あの…」
 にーちゃんが、おずおずと口を開く。
「もう……いいでしょうか?
 昨日からこんな調子なんで、親方が機嫌悪くって……。
 それに、お役人からは、他言無用って言われてるし……、…だから……」
 やっぱりそんなトコか。
 口止めは、大方あの副団長のさしがねだろう。
 ええいっ、どこまでも了見の狭い奴だっ!
 あたしは内心のざわめきを見せずに、少し微笑んで見せた。
「ありがと。助かったわ」
 彼はほっとした表情になる。
 ガウリイがその肩を、ぽんっ、と叩いた。
「――礼を言わなきゃな。――隊長を助け上げてくれた…」
「いっ、いえ! お、俺なんて…!
 本当に助けることが出来たら――良かったんですけど……」
「それでも、だ」
 優しく微笑むガウリイに、彼は切なげに笑顔を返す。
「――俺みたいのでも…噂は聞いてました。
 騎士団長さんは――とてもいい人だったって……。
 あなたも、――どうか気を落とさずに……」
 ガウリイは目を細め――少し頷いた。


 にーちゃんを降ろした後、あたし達はパン屋で少し買い物をして、代価を払った。
「……! こんなに!?
 多すぎますよ!」
「いいのよ、どうせこの絡みで、昨日から仕事になってないんでしょ。
 情報料だと思って、とっといて」
 彼の手に硬貨を押し付けて、店を出るあたし達。
 遠くの方で、彼の礼を言う声が聞こえて来た。


 くしゃっ。
 ガウリイの手が、あたしの髪をかきまわす。
 ふんっ、どーせ、『ケチなおまえにしちゃ珍しい』とか言いたいんでしょ?
 くしゃくしゃくしゃ……
「…ちょっと、ガウリイっ!
 いつまでかきまわしてるのよっ、髪が……」
 手を掴んで、抗議しようとしたあたしは、そのまま固まった。
 ――緋の海に沈む蒼。
 ガウリイの瞳が潤んでいた。
「…ガウリイ……」
 思わず声を漏らすと、ガウリイが苦笑する。
「――オレも――らしくない、な」
 あたしはどうしていいか判らず――、俯くようにしてその手を再び、自分の頭に戻した。
 ガウリイは吐息のような笑いを漏らすと、もう一度だけ、頭を撫でて来た。



「この通りか?」
 通りの分岐に立ったあたし達は、一本の道に目をやる。
「大通りを北に向かって、三本めの長い真っ直ぐな道、ここだわ」
 さっきにーちゃんが教えてくれた自分のアパートへの――つまり、ネイムが発見された場所へ行き着く――道だ。
 脇には用水路。
 今はだいぶ水かさが減っているが、あの豪雨の終り頃なら、かなり多かったろう。
 ――そう、大の男を運べる程――に。
 用水路には、所々、家の出入り口などには蓋がされている。
 にーちゃんが見付けなければ、街の外まで流されていたかもしれない。
「ここから、にーちゃんの発見した場所までの間に、犯行現場があるわね」
「…何で断言できるんだ?」
 おおう。
 毎度のコトながら、力が抜ける。
「いーい?
 ほら、ここから用水路が分岐してるでしょ」
 あたしは大通りから直進している流れと、その道へ向かっての流れを示す。
「小さい物ならともかく、大きなモノなら、大きな流れの方へ直進するのが普通よ。
 ここまで流れて来て、わざわざ曲がって行く可能性を考える方が、不自然でしょうに」
 ガウリイは大きく身体を屈めて、用水路を覗き込む。
「――なるほど、な」
「犯行現場が判ったら、もしかしたらその近くに住んでる人の中に、目撃者がいるかもしれないでしょ」
「だけど、そんなんならよ、もう役人が見付けてるんじゃないのか?」
「みんなが役人の味方とは限らないってば。
 あるいは――迂闊に名乗り出て、とばっちりを避けたいっていうのもあるかも」
「とばっちり?」
「相手は、相当の手練〈てだ〉れよ。
 口封じに今度は、自分が狙われないって保証はないでしょ」
 ガウリイは少し黙ってから、頷いた。
 このガウリイが認める程の達人だったネイム。
 彼を抜刀する間も与えず、一刀の元に切って捨てた相手となれば、並の腕であるはずがない。
「それにあんたの目なら、役人が見落としたモノが判るかもしれないしね。
 しっかりその辺見ててよ」
「わかった」



 道はけっこー長く、パン屋のにーちゃんが言った通り、緩い坂になっていた。
 両側はいわゆるフツーの家並が続く。
「お?」
 ガウリイが声を出したので振り返ると、二階の窓から小さな子供が覗いていた。
 にっこり笑ってガウリイが軽く手を振ると、子供の方も嬉しそうに振り返す。
 と、次の瞬間。
「何してんのっ!」
 母親とおぼしき怒号の後、まるでひっさらわれるような勢いで、引っ張り込まれる子供。
 勢い良く閉じた窓を見つめたまま、ガウリイが頭をかいている。
「これじゃ、オレ達が犯人みたいだな」
 あたしは苦笑するしかない。
 仕方がない、と受けるほど人間は出来ていないが、まだ得体の知れない殺人犯が潜んでいるという状況では、無理もないや、と思ってしまうからだ。
「ここじゃ聞き込みも出来そうもないわね。
 ――もっとも、役人達がとっくにやってるでしょうけど」



「ここが――あのにーちゃんのアパートか?」
「みたい、ね」
 結局、あたし達は何の手掛かりも見付けられないまま、終点まで来てしまったようである。
「特におかしなトコはなかったぞ」
 ガウリイは両腕を頭の後ろで組んで、伸び一つ。
「あの雨だったから、めぼしい手掛かりは流れちゃったんでしょうね」
「どうする?」
「――ここにいてもしょーがないでしょ。
 逆の方から見たら判る、って場合もあるだろうし」
「わかった」
 にーちゃんの辿った道をそのままなぞり始めると、何だか奇妙な気分になる。
 あの日の昏さは、今はどこにもない。
 何だか狡猾な罠にかかっているみたいな――錯覚に陥りそうで――。


 少し歩いた所で、唐突に路地から声がした。
「ようよう、さっきから何してんだよ」
 よさんかいと思うようなお約束の台詞を吐いて、何人かの、これまたお約束なごろつき風の輩が現れる。
 外見がお約束なのだ、これから展開するコトも大した変わりばえせんだろう。
「こんな物騒なトコで、何をやってんのかな?」
「決まってんだろ」
「逢引とかかぁ?」
 明らかな揶揄を含んだバカ笑い。
 こんなたわけ者連中に黙って付き合ってやるほど、こっちはヒマ人ではない。
 さっさとケリ付けて、本来の目的に邁進するのみである。
 けれど、あたしが口を開くより先に、その言葉が来た。
「こいつ等だってヨソ者だ。
 あの成り上がりのサギ師野郎みたいに、目立とうと思ってたら、あんな情けない末路になるのさ」
 ぶち。
 そーか、その口、そんなに塞いで欲しいか?
 呪文を唱え始めた時――、少し後ろで『気』が膨れ上がった。
 今まで感じたこともない程のすさまじい圧迫感。
 あたしは思わず中断して、そちらを見てしまった。
 総毛立つ、というのは、こういうことを言うのだろう。
 『怒気』と言うよりは――すでに『殺気』だ。
 ――あたしでさえ、ガウリイのこんな剥きだしの『殺気』を、目の当たりにしたのは始めてだった。
 まるで、その『気』だけで、相手を殺せそうな――
 実際、ゴロつき達は、すでに呑まれかけている。
 剣に手をかけないままで、ガウリイがゆっくりと―― 一歩を踏み出す。
 彼等は怯えたように後図去る。
 息が詰まりそうな沈黙。
「……う……、……うわぁぁっ……!」
 その圧迫に耐え兼ねた一人が、抜き身のまま持っていた剣で切り掛かった。
「――だめっ…!」
 あたしが反射的に発した叫びは、いったいどっちに向かってだったのか。
 けれど、声が届くより前に、一瞬の攻防は決着が付いていた。
 地面に響く鈍い音の後、金属の高い音が続き。
 ゴロつきの右腕は、剣を持ったまま、胴体から離れていた――。
 一方のガウリイは、何事もなかったように立っている。
 おそらく今何が起きたのか、ゴロつき達には判っていないだろう。
 ガウリイが剣に手をかけたことすら、気付いていないかもしれない。
 彼の剣さばきを見慣れたあたしでも、ようやく判るほどの速さ。
 それでも、危険だけは十分に身に染みたのだろう。
 悲鳴をあげてのたうち回る仲間を必死に抱え上げ、お約束の捨て台詞を残すコトも忘れて、ほうほうの体で逃げ去って行った。
 彼等が姿を消すと同時に、あたりから圧迫感が消失する。
 ガウリイは短く息をついた。
「――ますます、オレ達が犯人みたいだ、な」
 少し低い声は、自嘲するような響きだった。
「――あんたがやらなかったら、あたしがやってた。
 同じことよ」
 あたしは鋭すぎた『殺気』の余韻を振り払うように、そう答えていた。



[つづく]




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