2『金糸の迷宮』5

5.絡み合う 思惑の果て 紡ぎしは(その5)



 ――それから後のコトはよく覚えていない。
 こんな風になる時があるなんて、考えたコトもなかった。
 いつでもあたしは真っ正面を見ていられたはずなのに。
 どんなに信じられないような状況でも、自分がどうしているかわかっていられると思ってた。
 なのに。
 アタマのどこかの神経がぷっつり切れてしまったよう。
 何かをしているはずなのに。
 何かを見ているはずなのに。
 何もかもがフィルターでも通しているような。
 どこか遠くで起こっているようで――――
 
 
 
「――で――か? 大丈夫――ですか?」
 かすかな声と、肩を揺さぶられる感触。
 ゆっくりとそちらに顔を向けると――。
 今ひとつ焦点の合っていない視界に、かろうじて人らしい姿が入ってきた。
「しっかりして下さい。私の言う事がわかりますか?」

 ――なに――? 何言ってんだろ――?
 
「ガウリイさんの――」
 その言葉は雷撃のように、深みに沈んでいた意識を貫いた。
「――ガウ――リイ――が――?」
 まだぼんやりとしている頭を必死に巡らせて、ようやくその言葉を紡ぎ出す。
「ああ、正気に戻りましたか?」

 そんなコトはどうでもいいってば――。
 
「――ガウリイ――は?」
「まだ意識は戻っていませんが、今は落ち着いています」
 胸の奥を痛みが走る。
「――今は――って、――どういうコト?」
 頭が働かないせいか、まだるっこしさがえらくカンにさわって、声が尖ってしまう。
「喀血した患部も治療も含めて、現時点で出来る限りの事はしました。
 ――ですが、以前診た時よりさらに消耗が進んでいるようです。
 ゆっくり休養を取らなかった――違いますか?」
 あたしは――かすかにうなずく。
 うなずくしかなかった。
 
 無理をしているのは気付いていたはずなのに。
 十分に休んでなんかいないのは、わかっていたはずなのに。
 
 ガウリイが元気そうにしていたから。
 ガウリイはいつも元気だったから。
 
 何で――そう信じてしまったんだ――ろう。
 
「ここでしっかり治療しておかなければ、いけませんよ。
 ――わかりますか?」
 
 ――声が――出てこない。
 
 しなければ、ならない。
 
 しなければ――どうなるって――いうの?
 
 胸苦しさが一気に増す。
 身体の震えが止まらない。
 
「落ち着いて。
 幸い、ガウリイさんは基礎体力があります。
 ちゃんと治療すれば、すぐに元に戻りますよ」
 
 優しい――声。
 このヒトは、いつもこんな風に言うんだろうか。
 そうでない――相手にでも――
 
「とりあえず、今夜はこのまま入院させましょう。
 明日の朝になれば、もう一人医者が来てくれます。
 そうすれば、もっと本格的な治療が出来ますからね」

「――そうすれば――」
 ようやく、声が、出た。
「そうすれば――治り――ますか――?」
 あたしがまだぼんやりしているのをわかっているのか、彼は肩をぽんっ、と叩いた。
「あなたまで具合悪くなっていられませんよ。
 ベッドを用意しますから、横になってください」
「――ガウリイに――
 ガウリイに会え――ますか?」
「――眠っていますが、それでもいいならどうぞ」

 手を借りて、何とか病室まで辿り着く。
 ドアが開かれると、鼻につく薬草の臭い。
 彼はあたしを戸口の所に立たせたまま椅子を用意すると、再び導いてくれた。
 
 見慣れた金色を認めて、ようやくあたしの視界は現実に戻って来ようとしているようだった。
 
「――カウチでよければ、ここで横になりますか?」

 このヒト――医者にあたしはどう見えているのか。
 まるでこっちの方が病人みたい――じゃない――。
 
 それでも、とてもここから離れるなんて考えるコトも出来なくて。
 素直にうなずくと、彼は毛布を用意すると言い残して出て行った。
 
 

 
 見慣れたはずのガウリイの――ひどくやつれて見える――顔。
 いつの間に――こんなになっていたんだろう?
 
 明りが暗いせいかと思って――光源の多さに気付く。
 さして広くもない部屋には、治療のためか、十分過ぎるほどの魔法の明りが灯っていた。
 病室って普通はそんなに明るくするものじゃない――と思いかけて、それほどしなければならない状態なんだと悟る。
 
 さっき鮮血に染まった上着は、脱がされていた。
 甦る赤の光景。
 また震えが来る。
 ――血なんか見慣れているはずなのに。
 
 ほどなく、医者が毛布を抱えて戻ってきた。
「時々、こんな風にすぐ側で付き添いたがる方がいるので、わざと置いてあるんですよ」
 カウチに毛布と枕をてきぱきと配置すると、また急いで出ていこうとする。
「隣の部屋で外来の患者を診察していますが、何かあったら呼んで下さいね」
「――夜――なのに?」
 ようやく、まともに思考か回ってきたらしい言葉が出た。
 彼も安心したのか、ちょっと冗談めいた口調になる。
「夜の患者って、意外と多いんですよ。
 ガウリイさんのようにね」



 ――静かだ――。
 寝息さえも聞こえない気がして、ゆっくりと手をガウリイの顔の前にかざしてみる。
 ほんのりとした息の暖かさが触れる。
 あたしは自分でもびっくりするような、大きな安堵の吐息をもらしていた。
「……う……」
 反応するように、かすかな呻き。
「ガウリイ!?」
 あたしは思わず立ち上がって、顔を覗き込む。
 けれど、それ以上の反応はない。
 落胆しながらも、ガウリイの額に汗が浮いているのに気付く。
 
 そっと廊下に出て、見つけた流し場からタオルと水を張った手桶を調達。
 汗を拭いて、額にタオルを乗せてから――、そっと頬に触れてみる。
 汗のせいか、一瞬の冷たさの後、熱さが勝ってきた。
 何だかたまらなくなって、ゆっくりと撫でてみる。
「……ん……」
 今度は瞼が動いた。
「ガウリイ?」
 また同じかと思った頃、ゆっくりと目が――開いた。



[つづく]




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