冷え切った室内はストーブを点けたからって、そう簡単には暖まってくれない。
部屋の中でも息が白くなる。
さっきのゼルの部屋と同じように、コンロにケトルをかけ。
二人とも外着のままで、ストーブの前に陣取った。
「――あいつ、何だと思う?」
「何か人外みたいな言い方ね。尻尾でも生えてた?」
「茶化すな。
どう考えても、妙なことが多すぎるんだ」
「そもそも、あんな所に転がってたってだけでも、十分妙だと思うけど?」
「そこからすでに――な」
ゼルがちょこっと考え込む。
すぐシリアスモードにしたがるのは、この御仁の悪いクセ。
「今のところ考えられる原因のパターンは――。
事件性がないとして――、自殺未遂、酔っぱらって行き倒れ……」
「記憶が混乱して、彷徨ってた末ってのもあり得るわね」
ゼル、うなずく。
「事件性があるとすれば――、偽装殺人未遂」
「あ、それはあたしも考えた」
さっき考えていたコト――凍死偽装の可能性を話す。
ゼルはまたうなずきながら聞いている。
「あと。事件性は確定出来ないけど、もうひとつ」
「?」
「ガウリイ自身が何かから逃げようとした」
「それじゃ事件だろう」
「わかんないわよ。
過酷な状況に陥って、失踪中とか」
「謎かけか…?
――しかし、あの旦那がそんなタイプに見えるか?」
あたし達はさっきのガウリイの明るい調子を思い出して、しばし考え込んでしまう。
「確かに、記憶喪失してる人間なら、もっと不安がってもいいような気もするけど――」
「不安な状況を忘れてるから、明るいって可能性もあるけどな」
「あ、最近流行ってる多重人格とか♪」
「流行ってるのか???
あれは全然別物だろうが――まあ、人格が交代している間は記憶が欠落するってのもあるから、可能性がないとは言えなくもないが―――」
何か思いついたのか、口ごもるゼル。
「少なくとも記憶がはっきりしない、ってのは嘘じゃないと思うけど?」
「それは認める。
――おまえ、アムネジアについてはどのくらい知ってる?」
「一般常識の範疇くらいだと思って」
「記憶喪失――医学用語では『健忘』もしくは『記憶障害』と言うんだが――」
「面倒な解説聞いてる根性ないわ。要点だけはしょって」
ゼルの知識は信頼出来るけど、説明となると、いかんせん長くなりがちなのだ。
この外といい勝負な温度の部屋ン中で、ガマン大会もどきは勘弁して欲しい。
「――過去の記憶が吹っ飛ぶ『逆行健忘』には、生まれてからの全てを忘れちまうのと、部分的に抜けるのがあるんだ」
うー、手足の先が冷たくなってきた。
動いてた方が、寒さが紛れるだろう。
コーヒーの用意をしながら、聞くことにする。
「ガウリイの場合、前者ってワケ?」
「自分の名前はわかってるから、『全健忘』じゃないと思うが――」
「それだけしかわからなくっても?」
「完全な『全健忘』ってのは、要はリセットだ。
記憶も認知も習慣も人格の果てまで、残らず吹っ飛んで、赤ん坊と同じ状態まで退行しちまう。
当然、会話なんか出来るはずもない」
ガウリイのような大男の身体で、中身だけ――。
現実にあり得るとは言え……シュールだ。
「旦那の場合は、おそらく一過性のものだと思うがな。
それだと、自分の状態を認識していなくても、普通に動ける場合もある」
――旦那って、ねぇ。
あんたとそんなにトシ違わないと思うけど…?
「もちろんおまえの言ってたように、アルコールや薬物中毒で一過性の健忘が起きることもある。
少なくとも、自分で酒を飲んだのは間違いないしな」
「あら、純粋アルコールを血管にブチ込めば、簡単に酔っぱらいくらい作れるじゃない?」
これは効くぞ〜。
消化器から吸収する手間もロスもなく、アルコール濃度はいぱぁ。
血管を通って、身体の隅々まで即効で届くし。
「さっき風呂で確認したが、注射痕やそれらしい外傷はなかったぞ」
「――そんなトコまで見とったんかい、あんた〜」
「―――なんだ、その目は」
「ゼルちゃぁん、てっきりストイックなんだと思ってたのに、そっちの方の嗜好だったわけ?
――ああああ、放棄しないでぇぇぇ〜!」
立ち上がろうとしたゼルを、慌てて押さえる。
「真面目にやれ、真面目に」
「はいはーい」
「しかし、あのアルコール臭から察するに、それほど酩酊していたとは思えん」
「わかんないわよ? 酔ってたのが醒めて来たのかも」
「通常、意識不明になるほど飲酒していたら、あんなまともな足跡は付かんだろう」
「まともな足跡?」
「さっきの公園には、おまえの足跡が往復、旦那のが片道分しかなかったからな」
「――そんなトコも見てたわけ?」
「当然だ」
……何か違うと思うんだけど…。
「あんた、医者より刑事になった方がいいかも」
「おまえの頼みだ、用心深くもなるさ」
「おひ」
――確かに、軽く新雪が降った後だから、足跡はくっきり残っていたろう。
考えてみれば、やたらと今夜の条件は良かったのだ。
足跡一つと言うなかれ。
気温が高すぎたら形が崩れてしまうし、低すぎたらしっかりとした形では残らなくなる。
知らないヒトもいると思うけど、あんまり低温だと雪は固まらなくなって、雪玉なんか作れなくなるのよ。
雪像なんかをしっかり固めるのに、水を混ぜるのはこのせいね。
気温の他にも、もし雪がずっと降り続けていれば足跡は隠れてしまうし。
もっと降っていたら、今度は除雪が始まり、各家庭からあそこに雪を捨てにやって来た人達に、判定不能なくらい踏み荒らされてしまったに違いない。
「旦那のはおまえよりわずかにはっきりしていた。
日が落ちて、気温がまだそんなに下がっていなかった頃に来たんだろう。
普通より身体の冷えが進んでいたのは、寒さに耐性がないか――あるいはアルコール分解に伴う放熱も加わったからかもしれない」
「あそこまで車で連れてきて、捨ててったって考えられない?」
「あの道は住宅街の住民用だから、必ずどこかで突き当たって、通り抜けには使えないように出来てる。
そんな所にわざわざ入ってくるというのは、リスクが大きすぎないか?」
「タイヤの痕は、2台分くらいだったわよ」
除雪車も入らない程度の積雪なら、歩行者はたいてい自動車の轍の上を選んで進む。
雪の中に足を埋めて冷たい思いをしなくていいし、その方がはるかに歩きやすいだからだ。
必然的に轍とにらめっこすることになるので、数台しか通っていなければ、だいたい痕でわかるわけ。
「確かに、いったん止まって車から降ろし、先まで行ってUターンして走り去った可能性も考えられなくもない。
少なくても、俺がおまえに連れられてきた道側には、旦那の足跡はなかったからな」
「タクシーってのは?」
「タクシーなら、ここの道をよく知っている。
Uターンするなら、わざわざ奥まで行かなくても、手近なあの公園を使うはずだ」
あたしはカップに湯を注ぎ始め――。
「状況だけでも、十分妙だが――。
俺が一番気になってるのは、そこじゃない」
お手軽インスタントだけど、コーヒーのいい香りが、まだ底冷えのする部屋に漂う。
「まだあるわけ?」
「――頭で覚えている記憶の他に、いわゆる『身体が覚えてる』って種類のもあるのはわかるか?」
「――クセとか?」
「それもあるが――。
例えば――自転車に乗れるヤツは、いちいち乗り方を考えてる訳じゃないだろう?
あれは潜在意識が記憶してるんだ」
あたしは膝を付いて、ゼルにカップを差し出す。
「今、俺がこうやってカップを受け取るという行動にしてもそうだ。
自分の腕の長さとカップの距離を、身体が認識してる。
単なる記憶喪失は演じられたとしても、無意識の反応まではコントロール出来るモンじゃない」
「――身体の記憶だけ欠落ってパターンはないわけ?」
「脳障害とかならな。
障害の起きた部位によって、運動機能が支障を受ける。
だが――さっきまでの様子を見る限り、脳関係の疾病や外傷はなさそうだ。
完全な全健忘ならあり得るが、あんな程度じゃすまない」
ゼルはコーヒーを一口飲んで、息をついた。
「しかし――どうも旦那の場合、日常動作すら、しっくり行ってないようなフシがあるんだな。
具体的に何って言うよりは、行動の端々で――」
唐突に、あたしはさっきの違和感に思い当たった。
「そっか――あたしが感じたの、それだ…!」
目を見開くゼル。
「さっき、お風呂に入る前、髪をかき上げる仕草が――何だかおかしくて――。
ほら、短いあんただって、前髪が伸びてきたら自然にかき上げるでしょ?
まして、あの髪よ。一年やそこらで伸びる長さじゃないわ。
なのに――慣れてないなんて――ある?」
表情が、驚きから苦笑に変わる。
「――やっぱり、そうか――。
リナ。
おまえの拾った厄介事は、意外と大きいかもしれんぞ――」
★ つづく ★